途中から生き残りパラレル。ううむ、原作通りでも良かっただろうか。
十億手に入れてフランスへ行く前の阿紫花。
羽佐間と。
十億手に入れてフランスへ行く前の阿紫花。
羽佐間と。
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イエスタディ・ネバーモア
向けられた銃口の冷たい輝きに、羽佐間は息を呑んだ。
「お別れ、しやしょ」
阿紫花は煙草を咥え、何も見ていない瞳で羽佐間を見た。
一人ぼっちの目だ、と。
羽佐間は思った。
そこらの女、まして洋の母親よりも、羽佐間と阿紫花の付き合いは長い。他のハグレ者が揶揄のネタにするほどだ。そこに性的な関係をほのめかして。
羽佐間がそのからかいに、本気でいきり立ったとしても、
「すいやせんねえ、あたしのお守りばっかさせちまってさ」
阿紫花はその度に苦笑して場を収める。羽佐間はそれが嫌だった。
阿紫花は馬鹿にされても怒らない。いくつになっても小娘のような高見にさえ笑っている。まして尾崎や増村の下卑た皮肉など、どこ吹く風という顔で聞かぬフリだ。仕事で仮に先導役を預けられても、阿紫花は彼らを叱ったり偉ぶったりする事なく、淡々と仕事だけこなす。だからこそ、我の強いハグレ者たちでも時に協力体制を取る事が出来たのだが。
羽佐間が気に入らないのは、阿紫花の口ぶりだ。
「すいやせんねえ。こんなあたしに、長い事つき合わせちまって……いいんですよ?いつでも、捨ててくれちまって」
阿紫花を知らぬ者は大概、こんな事を言われて気を良くする。羽佐間も最初そうだった。しかしふと気づいた。夜の街で遊びなれた頃だっただろうか。
阿紫花の言葉は要するに、
「気に入らなきゃどこへなりとも行きな」
という意味ではないのか、と。
阿紫花の言葉にはいつも陰がある。裏ではない、陰だ。それに気づいて羽佐間はぞっとした。
阿紫花という男は不思議な男だった。
人を垂らし込む才に恵まれすぎて、それで不幸になっている。女ならば夜の街に沈んで名を残しただろう、そんな才だ。男にとっては正しく徒(あだ)である。
特別顔立ちが整っているわけではない。いや、整っているがどこか作りかけの人形めいていて人を不安にさせる。触れたら切れそうな切れ長の目元も、取って食われそうな、ぞくりとさせるものがある。
完成品足り得ない人形のような、見る者を不安させるその目が何より人を不幸にする。
たとえ絶世の美女だろうとも、「これ」なければただの美女。そんなぞくりと背筋の粟立つような、あるいは内腿が疼くような、そんな気配を持つ者はざらにはいない。どれほど夜の街を眺めてみても、その気配を持つ人間はそうはいない。
美醜や老若を問わない。状況も意思も関与しない。一度背筋が震えたらすべて持っていかれる。恐怖して、あるいは幸福に包まれて、望んで誰しも不幸になる。
だが当の本人は笑って嘯く。
「あたしに勝手にのぼせ上がるヤツが馬鹿なのさ」
だから阿紫花というのは、つくづく裏の世界が似合う男なのだ。用があれば男でもたらし込む。
不穏な男だ。
拘留先の拘置所で警察官を落としてきた時は、つきあいの長い羽佐間ですら目をむいた。迎えに行った帰りの車の中で聴けば、ろくでもない警官どもだったと言う。
「あたしから才賀との繋がりを聞き出そうて胆だったんでしょうけどよ。へっ、こっちが煙草欲しがっただけでスイッチ入っちまってよ。脅すすかすの取調べが、こっちの体の取調べだ。馬鹿じゃねえのかっての」
殴ったり蹴られたり、というのではない。
「少し色目使っただけでヤニ下がりやがってよ。あたしのケツにサオ突っ込んでオナニーなさってやがったよ。馬鹿臭ェ」
阿紫花はそれでも警官の携帯電話の番号を羽佐間にちらつかせ、
「だがま、公安の人間だからちっと仲良くしてやらァ。用が済めば消しゃいいや。それまでは情報貰やいい。……ホント、便利だなァ。馬鹿な男ってのは」
まるで携帯電話の番号の登録を消去するように、阿紫花はそう笑った。
羽佐間は内心で腹を立てていた。
簡単に体を許す阿紫花にもだが、それ以上に才賀に腹が立った。
阿紫花が拘留されたのは、かねてより関係のあった組の三下の障害に関係しているとかいないとかの、不当拘留だった。証拠も無いのに、阿紫花が騒ぎ立てまいとしての事としか思えない。拘留したのが公安関係の人間だった事も、羽佐間にしてみれば悪夢のような出来事だった。
才賀の力があれば、そんな不当な処置などすぐさま解く事が出来たはずだ。しかし貞義も阿紫花もそれは望まなかった。羽佐間がいくら貞義の屋敷に出向いたとしても、阿紫花のようにこっそり敷居をまたぐなど許されるはずもなく追い出された。阿紫花は阿紫花で、拘留中レイプまがいの暴行にあっている癖に平然とした顔しか羽佐間に見せない。
二週間が経過したある日、突然阿紫花は出所した。元々不当拘留であるのだから、いつ出てきても当然ではあった。しかし羽佐間は「貞義が裏からやっと手を回したのでないか」と勘繰り、苛立ちを募らせた。貞義の財力と権力なら、あらゆる分野に影響力を示せるはずなのだ。それなのに阿紫花のためには尽力しなかった。
「あたしと旦那との繋がりなんぞ、公にゃ出来やせんでしょ。これでいいんでさ……。あたしらはハグレ者だ。日陰者だ。日の目を見てなさる旦那が、あたしの事なんかで動くはずがねえ」
阿紫花は煙草をふかしてそう笑うだけだ。
羽佐間にはそれが気に入らない。
確かに、才賀と黒賀のハグレ者は、殺しという仕事の雇い主と使用人の関係ではある。しかし阿紫花は貞義と付き合いが長いはずだ。それがどこまでの関係かは、羽佐間ですら明確には理解できない。しかし貞義の屋敷に数日留まり、ふらつく足で戻ってきた阿紫花の様子を見ていると見当が付いた。
羽佐間の腕に崩れ落ち、旦那、と、かさついた唇でやるせなく呟いて眠ってしまった阿紫花の顔--。
どうにかしてやりたい、と思ったが何をどうすればいいのか、四十前のただのヤクザ崩れの男には分かるはずもなく。
羽佐間はただ貞義に憤りを、阿紫花に隠れた恋慕を募らせていくだけだ。
--ある日の夜、阿紫花のマンション(昔人を騙して買わせたらしい)に行くと、マンションのロビーで阿紫花は男と抱き合っていた。誰もいないからいいものの、半ば無理矢理に阿紫花を捉えて、背広姿の男は強引にキスをして何やら苛立った様子で囁いていた。
阿紫花がやるせない顔で何か囁き返し、男はやっと納得した様子で去っていった。帰り際、阿紫花がキスを返すと、男はやっと笑みを見せたが、どこかしら卑屈に見えて羽佐間には不快だった。
男が自動ドアから出て行って、羽佐間はようやく物陰から顔を覗かせた。
「羽佐間。よう、どしたい?」
明るい声と顔で阿紫花は問う。いったいどちらが本当の顔だ。
「兄貴、……さっき、ここで」
「ああ。見てやがったのかい?いいけどよ、癖になっから盗み見はすんなよ?--警官でさ。前の逮捕の時の」
阿紫花は声を潜め、
「とうとう警官クビになってやんの。無理もねえやなあ」
阿紫花によると。
あの警官から情報を落とせるだけ落としたらしい。
「証拠品の揉み消しまでさせちまったからなあ。そいつはまだバレてねえんだが、他にも組の事件の経過やらガサ入れの日時やら……ああ、ヤクの押収品、前に横流しさせたっけな。そういうのがバレそうなんだとさ。ザマァねえや」
「……兄貴、まさか本気になっちゃ……」
先ほどのキスの様子を見ていた羽佐間が問うと、阿紫花は平手で羽佐間の額を殴り、
「冗談じゃねえ。誰が使い捨ての人間に本気になるかよ。もう捨て時さ。生ゴミになるだけ。後は--分かンだろ。あたしらの稼業なんだったよ」
「けど……兄貴、さっきキスまでしてたじゃねえか」
まるで中学生のように眉をしかめた羽佐間に、阿紫花は鼻で笑った。
「男なんてあたしは好かねえよ。どいつもこいつもあたしのケツでオナニーしてるだけでさ。ヒィヒィハァハァ喚いてアイシテルだのなんだの言いやがっけど、ありゃ全部自分に言ってんのさ。テメエが可愛いだけさ、男なんて」
「うっわ、阿紫花さん言うなあ。使い捨ての男は生ゴミ!ハハハ、あたしも言ってみたいわ」
高見は小娘のように笑い、しかし、しばらくしてぽつりと、
「--分かるかもね」
と、呟いた。
深夜のファミレスに、やけにその声が大きく響いた。
時計の針は二時を回っている。繁華街に近い駅前のファミレスには、酔っ払いや夜更かしな人間がちらほらと座っているだけだ。
「分かるって、何が」
「ん~、なんつかさ。違うじゃん、男と女は。使う場所も、感じる部分も、考える事も」
高見は小娘のように紫にぬりたくった唇でビールを飲み、
「だからもちろんうまくいかない事もあるし、全然考えが合わないとかあるじゃない」
「あんだろう、そりゃ」
「でもさ、男と男だったら、って考えてもどうしようもないワケよ。勘所が分かってるとか、考え方が近いとか、そんなのどうでもいいし、どうしようもない。結局人間なんて一人じゃん?たとえセックスしてても、一人一人なのよ。愛とか希望とかさ、そんな嘘みたいな言葉並べたって結局腰振って出してハイ終わり。誰だって冷めてる」
いつまで経っても小娘のようだと思っていた女の口からそんな言葉が出てきて、羽佐間はたじろぐ。
「アソコに入れられたって結局の所それは他人のイチモツであり、ただの肉の塊じゃない。例えば女だってホスト買ったりするじゃない?あるいは出会い系とかで、愛のないセックスする。それだって見方変えれば『男のチンチンでオナニーしてる』だけなのよ。女だって相手が男なら何でもいいや、ってケースは存在するし、女だから貞操観念に固執するって話はおかしい。あたしは知らないけど、レイプされてもケロリとしてる女だっているだろうし、逆にされて、死にたくなるほど苦しむ男だっている」
「……」
「全然違うんだよね。人間って。それぞれ自分を抱えてて、自分ひとりだって思ってるからさ。で、うまくいかない事を性別とか相手のせいにして少しごまかしてたりもする。男と女の間には深くて暗い溝があって当然なんだ--とかさ」
ちうう、と、高見は音を立ててビールを啜る。童顔な上に化粧が災いして、本当に小娘に見える。
「そこいくと、阿紫花さんてスゴイよね」
「え?」
「多分もうどうでもいいんだと思うよ。男なんて。女も--あの人は男にされてる事を女にするのがイヤだから女大事にする振りしてるけど--本気になんてなる事ないでしょ。イヤミだよね、スゴイけど。思ったことない?コイツ、スカしててムカつくなァ、って。あたしはいつも思うよ」
「……」
「あの人誰も見ないじゃない。こっちも人形繰りしか能のない馬鹿だから、気づかないフリしてっけど。あの人がリーダーやってっとうまくいくから従ってるけど。イヤにならない?こっちの事ゾワゾワさせるだけさせといて、いつだってひらりひらり避けて、本気にならないじゃない。羽佐間さん、あんたもイヤにならない?」
「あ、羽佐間。今日は遅かったじゃねえか」
朝である。直前までどこかで飲んでいたのか、朝日の中居間で寝転がっていた阿紫花は機嫌がよかった。帰宅した羽佐間の持っていたコンビニ袋に気づき、
「アイス持ってねえ?咽喉渇きやした」
じゃれつく阿紫花をいなすように、羽佐間はソファに腰を下ろし、
「ねえですよ。余計乾きますよ……。水、冷蔵庫に買って置きましたぜ」
「あ~、あんがとさん」
邪気のない笑みで、阿紫花は立ち上がり冷蔵庫から水を出してラッパ飲みしている。
羽佐間には警戒していない。羽佐間には分かる。
「……」
「あ。羽佐間?アレ、始末しやしたから」
え、と羽佐間が聞き返す。
「ほら、警官。始末しやしたから。もう大丈夫」
絶句した羽佐間に近づき、阿紫花はソファに寝転がった。
「眠いんでやんの」
「兄貴、始末って」
「拳銃持ってたから、アタマ、吹き飛ばし……ファ」
阿紫花は羽佐間の膝枕を借りたまま、
「糸だけでも出来まさ……あたし、人形使いだから」
「……兄貴」
「羽佐間ァ、……眠い。眠いんでさ」
「……兄貴。寝るなら、布団に行きやしょ。運んでやりますから」
阿紫花は抵抗しない。抱き上げられても、目を閉じて眠りの入り口をまどろんでいる。
羽佐間がもし。
阿紫花に手を出しても、おそらく阿紫花は抵抗しないだろう。
だが同時に「生ゴミ」扱いされる運命を背負う事になる。
羽佐間が阿紫花に対してまったくの性的なアピールをせず、阿紫花の眼差しを他と同じように見返すから成立する無抵抗なのだ。
阿紫花の軽い体を抱きしめ、羽佐間は思う。
高見は阿紫花を勘違いしている。阿紫花が好き勝手に男を弄んでいると思い込んでいる。逆だ。弄ばれているのは、本当は阿紫花の方だ。望みもしないのに好き勝手に体を使われて、勝手に本気になられて。情報を引き出したり犯罪に手を染めさせるのは意趣返しだろう。しかしそれとて、最初に阿紫花におかしな真似をするのは相手の方だ。その挙句に殺されても、羽佐間としては同じ男として「馬鹿なヤツ」と思うだけだ。
--阿紫花の寝顔を見下ろして、羽佐間は思う。
阿紫花は誰一人として愛してなどいないのだろう。
羽佐間の事も、ましてや、貞義の事も。
(一人ぼっちなんだな)
だからこそ、阿紫花には触れまい。--羽佐間はそう思った。
誰か一人くらいそんな人間が必要なのだ。この人には。
……カチリ、と。
撃鉄を起こす音が耳に付いた。
暗闇だ。
「……兄、貴?」
「羽佐間。十億、あたしが貰いやす」
ゆっくりと振り向くと、阿紫花が立っていた。
道に迷ったと阿紫花が言うので、車を停めて周囲を見回すために車を降りたところだった。
辺りに民家はない。明かりなどない。
「兄貴?何、言って」
「十億円は大きいだろ。あたしらの稼ぎの何万年分か分からねえや。あたし、残りの人生楽して生きたいんでね。あんたが死ねば独り占めだ」
「兄貴……!」
羽佐間は耳を疑った。
阿紫花は銃を構えたまま煙草を咥え、
「お別れ、しやしょ」
そう言った。
「兄貴……!そんな、--そんな一人ぼっちな目で言わねえで下せえよ!」
羽佐間は叫ぶ。
「金なんかいいっすよ!そりゃ、金は大事ですけど!兄貴がいなくなったら、俺……」
「羽佐間、拳銃出せよ」
「へ……」
「拳銃構えてまで、あたしに同じ事言えるか?金なんかいらねえ、あたししかいらねえ、って。あたしの後ろに十億の現ナマが見えたら、あんただってあたしを撃つさ」
「兄……」
「出しゃあがれ!」
ビリリ、と威圧するように阿紫花は怒鳴った。
羽佐間は拳銃を内ポケットから出し、--構えた。
「……撃てねえよ、兄貴」
「撃ちゃあいい。やれよ。簡単だ。いつだってやってきたじゃねえか。他の連中と同じように、あたしのアタマ吹き飛ばしなせェよ」
「出来ねえよ!」
「やれ!十億!あんたに全部くれてやっからよ!ガキや嫁さんにくれてるなりテメエで使うなりしろってんだ!」
「……!」
ドン、と。
暗闇に銃声が響いた。
びゃあ、と、森の暗がりで鳥が鳴いた。
眠りを妨げられた鳥がばさばさと勢いづいて暗い夜空に舞い上がる。
「……兄貴」
羽佐間は拳銃を懐にしまい込んだ。
「俺には出来ねェ」
阿紫花は拳銃を構えたまま、
「じゃああたしが撃つか?」
「俺を撃つなら、どうぞ、覚悟はしてまさ。俺だって殺しで食ってる」
「……」
「俺を殺して、それで兄貴が満足なら、どうぞ。俺は兄貴に、兄貴でいてほしい。そのためなら、なんだっていいんだ……」
阿紫花を見ると。
奇妙な顔で羽佐間を見ていた。
自我に気づいた人形のように滑稽で、悲劇的な顔で。
自分のこめかみに銃口を当てた。
「兄貴……!」
羽佐間は気づき、慌てて阿紫花に駆け寄り銃を下ろさせた。
本気で撃つ気はなかったようで、阿紫花は大人しく銃を下ろした。
目を見開いて、暗闇の向こうの湖面を見つめている。
阿紫花を抱きしめ、羽佐間は呟いた。泣きたくなっていた。
「どうして……」
「……たって、……か」
「え?」
「生きてたって、仕方ねえじゃねえか」
阿紫花は言った。
「旦那もいねえ。人形もねえ。あんたはあたしを抱かねえ。嫁さんとガキ捨てて、あたしと外国へ逃げてくれるワケもねえ」
それをしてどうなるのだ。人を愛さない阿紫花に追従したとしても、他の男と同じようにいつか始末されるだけだ。
「兄貴……兄貴ィ……」
泣きたくなって、羽佐間は阿紫花を抱きしめた。
「俺は……兄貴とは、いつでも兄貴と舎弟でいてえ」
振り絞る声で、羽佐間は阿紫花を抱きしめた。
「兄貴は俺の、大事な兄貴だ。兄貴を好き勝手にした連中みてえには出来ねえよ。俺は、兄貴が帰ってくるのを待ってたい。迎えていたい」
「……帰ってくる、って、分からねえじゃねえか」
「それでもいいんだ。俺は、兄貴をずっと、待ってる」
泣き出した羽佐間の涙が、阿紫花の顔に落ちる。
阿紫花はそれを受け入れている。
「あたしを……待って、」
「ええ、ええ……!」
「あたし、……どこ行きやしょ?……」
どこでも行けやすもンねえ、と。
阿紫花は羽佐間の涙を受け入れたまま、うっすらと笑みを浮かべて問うた。
それが、別れの顛末だった。
感動的な別れの後、阿紫花はフランスへ旅立ち。
自動人形との壮絶な決戦を経て。
黒賀村へと少しだけ戻ってきた。
羽佐間はと言えば。
ゾナハ病を味わって回復して。
故郷にふらりと戻ってきた。
記憶の中の阿紫花はあの日のまま、羽佐間の涙を顔で受け止めて、まるで泣いているように微笑んだままだ。
なかなか感動的というか、阿紫花らしくない顔で微笑んでいるので、羽佐間の記憶に強く残った。
しかし。
「納得いかねえ……」
阿紫花家の軒先で、羽佐間はそう呟いた。
「Pardon?……いや、何か」
阿紫花家の縁側に、見慣れない外国人が座っている。
それだけならいいが、その膝には平馬が乗っている。
隣では長女がノートにガリガリ書き込みながら、
「ド・モルガンの法則って、この場合に演算値を虚数で求めても実数を出せるの?」
と、外国語のような言葉を投げかけている。
「邪魔しないでよ!菊姉、マニアックな話題しかないんだもん。ジョージちん、次だよ」
次女は寝転がって将棋の駒を弄っているし、三女は外国人の背後で、
「平馬!ちょっと、櫛取って!丸いヤツ!かんざしも!」
「面倒臭~。なあ~、百合姉、ジョージの髪で美容院ごっこすんのヤメたら?髪抜けそうで怖ェよ」
「どうして平馬が怖がるのよ。もうちょっとだけ!--ごめんね、ジョージさん。クラスの女の子と、お互い髪の毛纏めっこしてお祭り行く約束しちゃったの」
そのクラスの女の子とやらはよほど長い髪の毛なのだろうか。ジョージの長い髪の毛を、百合はくるくる纏めて三つ編みやお団子を作って試している。
「菊姉練習させてくれないんだもの」
「素人に任せたら髪の毛痛むでしょ。それにワタクシは、PLCの演算回路を独力で組み立てるの。自由研究なんだから」
「ジョージちん手伝ったら独力じゃないじゃん。お、その手で来ましたか~!ジョージちん本当に将棋初心者?」
……馴染みすぎだろう。
「阿紫花の知人か?阿紫花は今出かけている」
見れば分からあ!と叫ばなかったのは、ジョージと呼ばれるこの外国人の周囲に阿紫花の弟妹がいたせいだ。彼らに悪印象をもたれては、今後阿紫花にどんな顔をされるか分からない。
「……いや、兄貴、スイカ好きだったからよ」
お中元代わりと言っては何だが、羽佐間はスイカを差し出し、縁側に置いた。
「……あんた、兄貴の知り合いかい」
「……阿紫花と私は」
ジョージが言いかけ、すかさず三姉妹が、
「お友達なのよねッ!」
「そう!フランスで知り合ったお友達の!」
「ジョージちんで~す。あ、本名はジョージ・ラローシュって言うよ」
……明るい口調で言っても、不自然は不自然だ。
羽佐間は三姉妹の態度に不信を抱いている。
「え?その……いや、もしかしたらあんた、」
兄貴のコレなのか?--そう問いかけようとした瞬間。
「お~、羽佐間じゃねえか。どしたい」
阿紫花の声がした。
「兄貴……!」
「おう、元気だったかよ」
阿紫花は笑った。屈託ない笑みで。
それだけで羽佐間は胸が詰まりそうになる。
(兄貴……!)
「兄……!」
感極まって抱きつこうとする羽佐間を素通りし、阿紫花はスイカに夢中になる。
「あ、スイカじゃねえか。羽佐間か?あんがとな。やった、見ろよジョージさん。……百合、お前ぇ、前から見てみろって。笑えて仕方ねえ。ぷくくくく」
「え?」
阿紫花の言葉に、菊とれんげが顔を上げる。
途端に噴出した。
「可愛いじゃないの……!」
「ジョージちんさあ、……プーッ、笑いなよ、すっごい盛ってるよ。キャバ嬢かって感じ」
「……こうか?」とジョージは笑みを作ろうとするが、歯が痛いようにしか見えない笑みだ。
「ジョージさん、は、っははは、怖ェ!笑顔超怖ェ!」
阿紫花は大笑いで羽佐間に同意を求めてきた。
「な!?テメエもそう思うだろ!?」
「……」
(兄貴……笑ってる)
羽佐間の胸の内に、いくつかの考えが去来する。
阿紫花の過去を、この外国人にブチまけたら、どうなるだろうか、とか。ブチ壊れたら、今度こそ自分は阿紫花に触れてもいいのじゃないか、とか。でもこの外国人も銀髪だしおそらくしろがねだろうから、それくらいじゃどうもしない神経かもな、とか。
……阿紫花が笑ってるから、これでいいんじゃないか、とか。
羽佐間は色々考えて。
「はは……おっかしいですねえ」
笑ったのだが、何故かそれは少し泣きそうな笑みにしかならなかった。
END
原作の羽佐間の消息が気になる。案外阿紫花に始末されていても、私は驚かない。
向けられた銃口の冷たい輝きに、羽佐間は息を呑んだ。
「お別れ、しやしょ」
阿紫花は煙草を咥え、何も見ていない瞳で羽佐間を見た。
一人ぼっちの目だ、と。
羽佐間は思った。
そこらの女、まして洋の母親よりも、羽佐間と阿紫花の付き合いは長い。他のハグレ者が揶揄のネタにするほどだ。そこに性的な関係をほのめかして。
羽佐間がそのからかいに、本気でいきり立ったとしても、
「すいやせんねえ、あたしのお守りばっかさせちまってさ」
阿紫花はその度に苦笑して場を収める。羽佐間はそれが嫌だった。
阿紫花は馬鹿にされても怒らない。いくつになっても小娘のような高見にさえ笑っている。まして尾崎や増村の下卑た皮肉など、どこ吹く風という顔で聞かぬフリだ。仕事で仮に先導役を預けられても、阿紫花は彼らを叱ったり偉ぶったりする事なく、淡々と仕事だけこなす。だからこそ、我の強いハグレ者たちでも時に協力体制を取る事が出来たのだが。
羽佐間が気に入らないのは、阿紫花の口ぶりだ。
「すいやせんねえ。こんなあたしに、長い事つき合わせちまって……いいんですよ?いつでも、捨ててくれちまって」
阿紫花を知らぬ者は大概、こんな事を言われて気を良くする。羽佐間も最初そうだった。しかしふと気づいた。夜の街で遊びなれた頃だっただろうか。
阿紫花の言葉は要するに、
「気に入らなきゃどこへなりとも行きな」
という意味ではないのか、と。
阿紫花の言葉にはいつも陰がある。裏ではない、陰だ。それに気づいて羽佐間はぞっとした。
阿紫花という男は不思議な男だった。
人を垂らし込む才に恵まれすぎて、それで不幸になっている。女ならば夜の街に沈んで名を残しただろう、そんな才だ。男にとっては正しく徒(あだ)である。
特別顔立ちが整っているわけではない。いや、整っているがどこか作りかけの人形めいていて人を不安にさせる。触れたら切れそうな切れ長の目元も、取って食われそうな、ぞくりとさせるものがある。
完成品足り得ない人形のような、見る者を不安させるその目が何より人を不幸にする。
たとえ絶世の美女だろうとも、「これ」なければただの美女。そんなぞくりと背筋の粟立つような、あるいは内腿が疼くような、そんな気配を持つ者はざらにはいない。どれほど夜の街を眺めてみても、その気配を持つ人間はそうはいない。
美醜や老若を問わない。状況も意思も関与しない。一度背筋が震えたらすべて持っていかれる。恐怖して、あるいは幸福に包まれて、望んで誰しも不幸になる。
だが当の本人は笑って嘯く。
「あたしに勝手にのぼせ上がるヤツが馬鹿なのさ」
だから阿紫花というのは、つくづく裏の世界が似合う男なのだ。用があれば男でもたらし込む。
不穏な男だ。
拘留先の拘置所で警察官を落としてきた時は、つきあいの長い羽佐間ですら目をむいた。迎えに行った帰りの車の中で聴けば、ろくでもない警官どもだったと言う。
「あたしから才賀との繋がりを聞き出そうて胆だったんでしょうけどよ。へっ、こっちが煙草欲しがっただけでスイッチ入っちまってよ。脅すすかすの取調べが、こっちの体の取調べだ。馬鹿じゃねえのかっての」
殴ったり蹴られたり、というのではない。
「少し色目使っただけでヤニ下がりやがってよ。あたしのケツにサオ突っ込んでオナニーなさってやがったよ。馬鹿臭ェ」
阿紫花はそれでも警官の携帯電話の番号を羽佐間にちらつかせ、
「だがま、公安の人間だからちっと仲良くしてやらァ。用が済めば消しゃいいや。それまでは情報貰やいい。……ホント、便利だなァ。馬鹿な男ってのは」
まるで携帯電話の番号の登録を消去するように、阿紫花はそう笑った。
羽佐間は内心で腹を立てていた。
簡単に体を許す阿紫花にもだが、それ以上に才賀に腹が立った。
阿紫花が拘留されたのは、かねてより関係のあった組の三下の障害に関係しているとかいないとかの、不当拘留だった。証拠も無いのに、阿紫花が騒ぎ立てまいとしての事としか思えない。拘留したのが公安関係の人間だった事も、羽佐間にしてみれば悪夢のような出来事だった。
才賀の力があれば、そんな不当な処置などすぐさま解く事が出来たはずだ。しかし貞義も阿紫花もそれは望まなかった。羽佐間がいくら貞義の屋敷に出向いたとしても、阿紫花のようにこっそり敷居をまたぐなど許されるはずもなく追い出された。阿紫花は阿紫花で、拘留中レイプまがいの暴行にあっている癖に平然とした顔しか羽佐間に見せない。
二週間が経過したある日、突然阿紫花は出所した。元々不当拘留であるのだから、いつ出てきても当然ではあった。しかし羽佐間は「貞義が裏からやっと手を回したのでないか」と勘繰り、苛立ちを募らせた。貞義の財力と権力なら、あらゆる分野に影響力を示せるはずなのだ。それなのに阿紫花のためには尽力しなかった。
「あたしと旦那との繋がりなんぞ、公にゃ出来やせんでしょ。これでいいんでさ……。あたしらはハグレ者だ。日陰者だ。日の目を見てなさる旦那が、あたしの事なんかで動くはずがねえ」
阿紫花は煙草をふかしてそう笑うだけだ。
羽佐間にはそれが気に入らない。
確かに、才賀と黒賀のハグレ者は、殺しという仕事の雇い主と使用人の関係ではある。しかし阿紫花は貞義と付き合いが長いはずだ。それがどこまでの関係かは、羽佐間ですら明確には理解できない。しかし貞義の屋敷に数日留まり、ふらつく足で戻ってきた阿紫花の様子を見ていると見当が付いた。
羽佐間の腕に崩れ落ち、旦那、と、かさついた唇でやるせなく呟いて眠ってしまった阿紫花の顔--。
どうにかしてやりたい、と思ったが何をどうすればいいのか、四十前のただのヤクザ崩れの男には分かるはずもなく。
羽佐間はただ貞義に憤りを、阿紫花に隠れた恋慕を募らせていくだけだ。
--ある日の夜、阿紫花のマンション(昔人を騙して買わせたらしい)に行くと、マンションのロビーで阿紫花は男と抱き合っていた。誰もいないからいいものの、半ば無理矢理に阿紫花を捉えて、背広姿の男は強引にキスをして何やら苛立った様子で囁いていた。
阿紫花がやるせない顔で何か囁き返し、男はやっと納得した様子で去っていった。帰り際、阿紫花がキスを返すと、男はやっと笑みを見せたが、どこかしら卑屈に見えて羽佐間には不快だった。
男が自動ドアから出て行って、羽佐間はようやく物陰から顔を覗かせた。
「羽佐間。よう、どしたい?」
明るい声と顔で阿紫花は問う。いったいどちらが本当の顔だ。
「兄貴、……さっき、ここで」
「ああ。見てやがったのかい?いいけどよ、癖になっから盗み見はすんなよ?--警官でさ。前の逮捕の時の」
阿紫花は声を潜め、
「とうとう警官クビになってやんの。無理もねえやなあ」
阿紫花によると。
あの警官から情報を落とせるだけ落としたらしい。
「証拠品の揉み消しまでさせちまったからなあ。そいつはまだバレてねえんだが、他にも組の事件の経過やらガサ入れの日時やら……ああ、ヤクの押収品、前に横流しさせたっけな。そういうのがバレそうなんだとさ。ザマァねえや」
「……兄貴、まさか本気になっちゃ……」
先ほどのキスの様子を見ていた羽佐間が問うと、阿紫花は平手で羽佐間の額を殴り、
「冗談じゃねえ。誰が使い捨ての人間に本気になるかよ。もう捨て時さ。生ゴミになるだけ。後は--分かンだろ。あたしらの稼業なんだったよ」
「けど……兄貴、さっきキスまでしてたじゃねえか」
まるで中学生のように眉をしかめた羽佐間に、阿紫花は鼻で笑った。
「男なんてあたしは好かねえよ。どいつもこいつもあたしのケツでオナニーしてるだけでさ。ヒィヒィハァハァ喚いてアイシテルだのなんだの言いやがっけど、ありゃ全部自分に言ってんのさ。テメエが可愛いだけさ、男なんて」
「うっわ、阿紫花さん言うなあ。使い捨ての男は生ゴミ!ハハハ、あたしも言ってみたいわ」
高見は小娘のように笑い、しかし、しばらくしてぽつりと、
「--分かるかもね」
と、呟いた。
深夜のファミレスに、やけにその声が大きく響いた。
時計の針は二時を回っている。繁華街に近い駅前のファミレスには、酔っ払いや夜更かしな人間がちらほらと座っているだけだ。
「分かるって、何が」
「ん~、なんつかさ。違うじゃん、男と女は。使う場所も、感じる部分も、考える事も」
高見は小娘のように紫にぬりたくった唇でビールを飲み、
「だからもちろんうまくいかない事もあるし、全然考えが合わないとかあるじゃない」
「あんだろう、そりゃ」
「でもさ、男と男だったら、って考えてもどうしようもないワケよ。勘所が分かってるとか、考え方が近いとか、そんなのどうでもいいし、どうしようもない。結局人間なんて一人じゃん?たとえセックスしてても、一人一人なのよ。愛とか希望とかさ、そんな嘘みたいな言葉並べたって結局腰振って出してハイ終わり。誰だって冷めてる」
いつまで経っても小娘のようだと思っていた女の口からそんな言葉が出てきて、羽佐間はたじろぐ。
「アソコに入れられたって結局の所それは他人のイチモツであり、ただの肉の塊じゃない。例えば女だってホスト買ったりするじゃない?あるいは出会い系とかで、愛のないセックスする。それだって見方変えれば『男のチンチンでオナニーしてる』だけなのよ。女だって相手が男なら何でもいいや、ってケースは存在するし、女だから貞操観念に固執するって話はおかしい。あたしは知らないけど、レイプされてもケロリとしてる女だっているだろうし、逆にされて、死にたくなるほど苦しむ男だっている」
「……」
「全然違うんだよね。人間って。それぞれ自分を抱えてて、自分ひとりだって思ってるからさ。で、うまくいかない事を性別とか相手のせいにして少しごまかしてたりもする。男と女の間には深くて暗い溝があって当然なんだ--とかさ」
ちうう、と、高見は音を立ててビールを啜る。童顔な上に化粧が災いして、本当に小娘に見える。
「そこいくと、阿紫花さんてスゴイよね」
「え?」
「多分もうどうでもいいんだと思うよ。男なんて。女も--あの人は男にされてる事を女にするのがイヤだから女大事にする振りしてるけど--本気になんてなる事ないでしょ。イヤミだよね、スゴイけど。思ったことない?コイツ、スカしててムカつくなァ、って。あたしはいつも思うよ」
「……」
「あの人誰も見ないじゃない。こっちも人形繰りしか能のない馬鹿だから、気づかないフリしてっけど。あの人がリーダーやってっとうまくいくから従ってるけど。イヤにならない?こっちの事ゾワゾワさせるだけさせといて、いつだってひらりひらり避けて、本気にならないじゃない。羽佐間さん、あんたもイヤにならない?」
「あ、羽佐間。今日は遅かったじゃねえか」
朝である。直前までどこかで飲んでいたのか、朝日の中居間で寝転がっていた阿紫花は機嫌がよかった。帰宅した羽佐間の持っていたコンビニ袋に気づき、
「アイス持ってねえ?咽喉渇きやした」
じゃれつく阿紫花をいなすように、羽佐間はソファに腰を下ろし、
「ねえですよ。余計乾きますよ……。水、冷蔵庫に買って置きましたぜ」
「あ~、あんがとさん」
邪気のない笑みで、阿紫花は立ち上がり冷蔵庫から水を出してラッパ飲みしている。
羽佐間には警戒していない。羽佐間には分かる。
「……」
「あ。羽佐間?アレ、始末しやしたから」
え、と羽佐間が聞き返す。
「ほら、警官。始末しやしたから。もう大丈夫」
絶句した羽佐間に近づき、阿紫花はソファに寝転がった。
「眠いんでやんの」
「兄貴、始末って」
「拳銃持ってたから、アタマ、吹き飛ばし……ファ」
阿紫花は羽佐間の膝枕を借りたまま、
「糸だけでも出来まさ……あたし、人形使いだから」
「……兄貴」
「羽佐間ァ、……眠い。眠いんでさ」
「……兄貴。寝るなら、布団に行きやしょ。運んでやりますから」
阿紫花は抵抗しない。抱き上げられても、目を閉じて眠りの入り口をまどろんでいる。
羽佐間がもし。
阿紫花に手を出しても、おそらく阿紫花は抵抗しないだろう。
だが同時に「生ゴミ」扱いされる運命を背負う事になる。
羽佐間が阿紫花に対してまったくの性的なアピールをせず、阿紫花の眼差しを他と同じように見返すから成立する無抵抗なのだ。
阿紫花の軽い体を抱きしめ、羽佐間は思う。
高見は阿紫花を勘違いしている。阿紫花が好き勝手に男を弄んでいると思い込んでいる。逆だ。弄ばれているのは、本当は阿紫花の方だ。望みもしないのに好き勝手に体を使われて、勝手に本気になられて。情報を引き出したり犯罪に手を染めさせるのは意趣返しだろう。しかしそれとて、最初に阿紫花におかしな真似をするのは相手の方だ。その挙句に殺されても、羽佐間としては同じ男として「馬鹿なヤツ」と思うだけだ。
--阿紫花の寝顔を見下ろして、羽佐間は思う。
阿紫花は誰一人として愛してなどいないのだろう。
羽佐間の事も、ましてや、貞義の事も。
(一人ぼっちなんだな)
だからこそ、阿紫花には触れまい。--羽佐間はそう思った。
誰か一人くらいそんな人間が必要なのだ。この人には。
……カチリ、と。
撃鉄を起こす音が耳に付いた。
暗闇だ。
「……兄、貴?」
「羽佐間。十億、あたしが貰いやす」
ゆっくりと振り向くと、阿紫花が立っていた。
道に迷ったと阿紫花が言うので、車を停めて周囲を見回すために車を降りたところだった。
辺りに民家はない。明かりなどない。
「兄貴?何、言って」
「十億円は大きいだろ。あたしらの稼ぎの何万年分か分からねえや。あたし、残りの人生楽して生きたいんでね。あんたが死ねば独り占めだ」
「兄貴……!」
羽佐間は耳を疑った。
阿紫花は銃を構えたまま煙草を咥え、
「お別れ、しやしょ」
そう言った。
「兄貴……!そんな、--そんな一人ぼっちな目で言わねえで下せえよ!」
羽佐間は叫ぶ。
「金なんかいいっすよ!そりゃ、金は大事ですけど!兄貴がいなくなったら、俺……」
「羽佐間、拳銃出せよ」
「へ……」
「拳銃構えてまで、あたしに同じ事言えるか?金なんかいらねえ、あたししかいらねえ、って。あたしの後ろに十億の現ナマが見えたら、あんただってあたしを撃つさ」
「兄……」
「出しゃあがれ!」
ビリリ、と威圧するように阿紫花は怒鳴った。
羽佐間は拳銃を内ポケットから出し、--構えた。
「……撃てねえよ、兄貴」
「撃ちゃあいい。やれよ。簡単だ。いつだってやってきたじゃねえか。他の連中と同じように、あたしのアタマ吹き飛ばしなせェよ」
「出来ねえよ!」
「やれ!十億!あんたに全部くれてやっからよ!ガキや嫁さんにくれてるなりテメエで使うなりしろってんだ!」
「……!」
ドン、と。
暗闇に銃声が響いた。
びゃあ、と、森の暗がりで鳥が鳴いた。
眠りを妨げられた鳥がばさばさと勢いづいて暗い夜空に舞い上がる。
「……兄貴」
羽佐間は拳銃を懐にしまい込んだ。
「俺には出来ねェ」
阿紫花は拳銃を構えたまま、
「じゃああたしが撃つか?」
「俺を撃つなら、どうぞ、覚悟はしてまさ。俺だって殺しで食ってる」
「……」
「俺を殺して、それで兄貴が満足なら、どうぞ。俺は兄貴に、兄貴でいてほしい。そのためなら、なんだっていいんだ……」
阿紫花を見ると。
奇妙な顔で羽佐間を見ていた。
自我に気づいた人形のように滑稽で、悲劇的な顔で。
自分のこめかみに銃口を当てた。
「兄貴……!」
羽佐間は気づき、慌てて阿紫花に駆け寄り銃を下ろさせた。
本気で撃つ気はなかったようで、阿紫花は大人しく銃を下ろした。
目を見開いて、暗闇の向こうの湖面を見つめている。
阿紫花を抱きしめ、羽佐間は呟いた。泣きたくなっていた。
「どうして……」
「……たって、……か」
「え?」
「生きてたって、仕方ねえじゃねえか」
阿紫花は言った。
「旦那もいねえ。人形もねえ。あんたはあたしを抱かねえ。嫁さんとガキ捨てて、あたしと外国へ逃げてくれるワケもねえ」
それをしてどうなるのだ。人を愛さない阿紫花に追従したとしても、他の男と同じようにいつか始末されるだけだ。
「兄貴……兄貴ィ……」
泣きたくなって、羽佐間は阿紫花を抱きしめた。
「俺は……兄貴とは、いつでも兄貴と舎弟でいてえ」
振り絞る声で、羽佐間は阿紫花を抱きしめた。
「兄貴は俺の、大事な兄貴だ。兄貴を好き勝手にした連中みてえには出来ねえよ。俺は、兄貴が帰ってくるのを待ってたい。迎えていたい」
「……帰ってくる、って、分からねえじゃねえか」
「それでもいいんだ。俺は、兄貴をずっと、待ってる」
泣き出した羽佐間の涙が、阿紫花の顔に落ちる。
阿紫花はそれを受け入れている。
「あたしを……待って、」
「ええ、ええ……!」
「あたし、……どこ行きやしょ?……」
どこでも行けやすもンねえ、と。
阿紫花は羽佐間の涙を受け入れたまま、うっすらと笑みを浮かべて問うた。
それが、別れの顛末だった。
感動的な別れの後、阿紫花はフランスへ旅立ち。
自動人形との壮絶な決戦を経て。
黒賀村へと少しだけ戻ってきた。
羽佐間はと言えば。
ゾナハ病を味わって回復して。
故郷にふらりと戻ってきた。
記憶の中の阿紫花はあの日のまま、羽佐間の涙を顔で受け止めて、まるで泣いているように微笑んだままだ。
なかなか感動的というか、阿紫花らしくない顔で微笑んでいるので、羽佐間の記憶に強く残った。
しかし。
「納得いかねえ……」
阿紫花家の軒先で、羽佐間はそう呟いた。
「Pardon?……いや、何か」
阿紫花家の縁側に、見慣れない外国人が座っている。
それだけならいいが、その膝には平馬が乗っている。
隣では長女がノートにガリガリ書き込みながら、
「ド・モルガンの法則って、この場合に演算値を虚数で求めても実数を出せるの?」
と、外国語のような言葉を投げかけている。
「邪魔しないでよ!菊姉、マニアックな話題しかないんだもん。ジョージちん、次だよ」
次女は寝転がって将棋の駒を弄っているし、三女は外国人の背後で、
「平馬!ちょっと、櫛取って!丸いヤツ!かんざしも!」
「面倒臭~。なあ~、百合姉、ジョージの髪で美容院ごっこすんのヤメたら?髪抜けそうで怖ェよ」
「どうして平馬が怖がるのよ。もうちょっとだけ!--ごめんね、ジョージさん。クラスの女の子と、お互い髪の毛纏めっこしてお祭り行く約束しちゃったの」
そのクラスの女の子とやらはよほど長い髪の毛なのだろうか。ジョージの長い髪の毛を、百合はくるくる纏めて三つ編みやお団子を作って試している。
「菊姉練習させてくれないんだもの」
「素人に任せたら髪の毛痛むでしょ。それにワタクシは、PLCの演算回路を独力で組み立てるの。自由研究なんだから」
「ジョージちん手伝ったら独力じゃないじゃん。お、その手で来ましたか~!ジョージちん本当に将棋初心者?」
……馴染みすぎだろう。
「阿紫花の知人か?阿紫花は今出かけている」
見れば分からあ!と叫ばなかったのは、ジョージと呼ばれるこの外国人の周囲に阿紫花の弟妹がいたせいだ。彼らに悪印象をもたれては、今後阿紫花にどんな顔をされるか分からない。
「……いや、兄貴、スイカ好きだったからよ」
お中元代わりと言っては何だが、羽佐間はスイカを差し出し、縁側に置いた。
「……あんた、兄貴の知り合いかい」
「……阿紫花と私は」
ジョージが言いかけ、すかさず三姉妹が、
「お友達なのよねッ!」
「そう!フランスで知り合ったお友達の!」
「ジョージちんで~す。あ、本名はジョージ・ラローシュって言うよ」
……明るい口調で言っても、不自然は不自然だ。
羽佐間は三姉妹の態度に不信を抱いている。
「え?その……いや、もしかしたらあんた、」
兄貴のコレなのか?--そう問いかけようとした瞬間。
「お~、羽佐間じゃねえか。どしたい」
阿紫花の声がした。
「兄貴……!」
「おう、元気だったかよ」
阿紫花は笑った。屈託ない笑みで。
それだけで羽佐間は胸が詰まりそうになる。
(兄貴……!)
「兄……!」
感極まって抱きつこうとする羽佐間を素通りし、阿紫花はスイカに夢中になる。
「あ、スイカじゃねえか。羽佐間か?あんがとな。やった、見ろよジョージさん。……百合、お前ぇ、前から見てみろって。笑えて仕方ねえ。ぷくくくく」
「え?」
阿紫花の言葉に、菊とれんげが顔を上げる。
途端に噴出した。
「可愛いじゃないの……!」
「ジョージちんさあ、……プーッ、笑いなよ、すっごい盛ってるよ。キャバ嬢かって感じ」
「……こうか?」とジョージは笑みを作ろうとするが、歯が痛いようにしか見えない笑みだ。
「ジョージさん、は、っははは、怖ェ!笑顔超怖ェ!」
阿紫花は大笑いで羽佐間に同意を求めてきた。
「な!?テメエもそう思うだろ!?」
「……」
(兄貴……笑ってる)
羽佐間の胸の内に、いくつかの考えが去来する。
阿紫花の過去を、この外国人にブチまけたら、どうなるだろうか、とか。ブチ壊れたら、今度こそ自分は阿紫花に触れてもいいのじゃないか、とか。でもこの外国人も銀髪だしおそらくしろがねだろうから、それくらいじゃどうもしない神経かもな、とか。
……阿紫花が笑ってるから、これでいいんじゃないか、とか。
羽佐間は色々考えて。
「はは……おっかしいですねえ」
笑ったのだが、何故かそれは少し泣きそうな笑みにしかならなかった。
END
原作の羽佐間の消息が気になる。案外阿紫花に始末されていても、私は驚かない。
下ネタ。ジョージが阿紫花(のノリ)に慣れたらこんな会話平気でしそう。
リビングが場面のほとんどっていう昔のアメリカンホームドラマの雰囲気を目指し玉砕。
リビングが場面のほとんどっていう昔のアメリカンホームドラマの雰囲気を目指し玉砕。
小話
暗い部屋でソファに座ってそれぞれ読書とテレビ観賞をしながらの一幕。
「本読めンですかい、暗いのに」
ピザを齧っていた阿紫花が呟く。
「読める。テレビを見ていろ、邪魔だから」
日本語ではないコメディ番組がつまらないらしい。阿紫花は頬に手を当てて、
「お互い驚いた事~パフパフ~」
「話を聞いているか?」
「『案外硬かった事』。はい一つ目。次ジョージですぜ」
「だから人の話を……」
「ほら、あたしといて驚いた事なんか言って下せえよ」
ほれ、と阿紫花はピザの一切れをジョージの顔に押し付ける。
鬱陶しそうに眉をしかめ、それでもジョージは受け取り、
「……ピーツァを『ピザ』って発音した事」
本から目を動かさず咀嚼し飲み込んだ。
「ああ、日本だけなんですかい?いいじゃねえかよ別に……。次はあたしか。え~と……『やっぱどこもかしこも銀色だった』」
「『やっぱりどこもかしこも黒かった』」
「……そんな、驚く事ですかい?黒いのなんか」
「私やギイやフウにすれば、黒い方が珍しいだろうが」
「そうなんですかい?まあ金髪とか茶髪が普通な国ばっかですもんね。次次、『長かった』事でやすかね」
「『フウの屋敷のメイドに白飯を要求した』事」
「『皮まできっちり洗う』トコ」
「『英国のタバコの値段に本気で怒った』事」
「『あたしがあんたの洗ってる時すっげえ気持ちよさそうな顔してた』」
「……ねえ、何の話なの」
ミンシアはソファの陰から顔を覗かせ、
「あんまり変な話なら、部屋でしてよ……」
「変ですかね?」
「さあ?私はおかしな事は口にしていない」
「とぼける気?もう……阿紫花、いやらしい話ばっかしてたでしょ」
ジョージと阿紫花は顔を見合わせる。
「あたし、ジョージさんの『髪の毛』の話しかしてねえんだけど」
「だと思っていた。人の髪を弄るからな、お前は」
「だって長ェんだもの。つうか、姐ちゃん……」
ジョージはともかく、阿紫花はにんまりしてミンシアを見上げる。
ボン、と真っ赤になったミンシア。「知らない知らない!」と叫びながら真っ赤な顔でジョージの後頭部に掌で突き一つ。
「あんたらあっち行け!もう知らない!」
ぷりぷりと出て行ったミンシアの背後で「……お前のせいだ」「あたしのせいじゃねえですよ」と小声でやりあう二人。
他愛も無い夜のお話。
END
暗い部屋でソファに座ってそれぞれ読書とテレビ観賞をしながらの一幕。
「本読めンですかい、暗いのに」
ピザを齧っていた阿紫花が呟く。
「読める。テレビを見ていろ、邪魔だから」
日本語ではないコメディ番組がつまらないらしい。阿紫花は頬に手を当てて、
「お互い驚いた事~パフパフ~」
「話を聞いているか?」
「『案外硬かった事』。はい一つ目。次ジョージですぜ」
「だから人の話を……」
「ほら、あたしといて驚いた事なんか言って下せえよ」
ほれ、と阿紫花はピザの一切れをジョージの顔に押し付ける。
鬱陶しそうに眉をしかめ、それでもジョージは受け取り、
「……ピーツァを『ピザ』って発音した事」
本から目を動かさず咀嚼し飲み込んだ。
「ああ、日本だけなんですかい?いいじゃねえかよ別に……。次はあたしか。え~と……『やっぱどこもかしこも銀色だった』」
「『やっぱりどこもかしこも黒かった』」
「……そんな、驚く事ですかい?黒いのなんか」
「私やギイやフウにすれば、黒い方が珍しいだろうが」
「そうなんですかい?まあ金髪とか茶髪が普通な国ばっかですもんね。次次、『長かった』事でやすかね」
「『フウの屋敷のメイドに白飯を要求した』事」
「『皮まできっちり洗う』トコ」
「『英国のタバコの値段に本気で怒った』事」
「『あたしがあんたの洗ってる時すっげえ気持ちよさそうな顔してた』」
「……ねえ、何の話なの」
ミンシアはソファの陰から顔を覗かせ、
「あんまり変な話なら、部屋でしてよ……」
「変ですかね?」
「さあ?私はおかしな事は口にしていない」
「とぼける気?もう……阿紫花、いやらしい話ばっかしてたでしょ」
ジョージと阿紫花は顔を見合わせる。
「あたし、ジョージさんの『髪の毛』の話しかしてねえんだけど」
「だと思っていた。人の髪を弄るからな、お前は」
「だって長ェんだもの。つうか、姐ちゃん……」
ジョージはともかく、阿紫花はにんまりしてミンシアを見上げる。
ボン、と真っ赤になったミンシア。「知らない知らない!」と叫びながら真っ赤な顔でジョージの後頭部に掌で突き一つ。
「あんたらあっち行け!もう知らない!」
ぷりぷりと出て行ったミンシアの背後で「……お前のせいだ」「あたしのせいじゃねえですよ」と小声でやりあう二人。
他愛も無い夜のお話。
END
阿紫花と勝と平馬のシリアス。原作どおり。
インテルメディ、あるいは思い出
思い出話をしよう。
怪我も病気も人並みにしてきたつもりであるが、思い出せばどれも生死に関わるものではない。舐めて治る傷や寝れば治る病気、病院などそうそう行った事が無い。
病院に縁の薄い野良猫のような男は、不慣れゆえの大人しさで静かに廊下を歩いてきた。路上でするように、若く美しい女がいても声を掛けたりしない。相手が勤務中の看護婦だったせいもある。
個室の並ぶ階まで、階段で昇る。階下とは打って変わって人気のない廊下だ。その奥の、プレートのない部屋の扉を、男は叩扉した。
応えは無い。
そっと、ドアを開けた。
少年--才賀勝は眠っていた。
付き人のしろがねはいないようだ。何か雑務で席を外しているのだろう。時計を見ると午後3時過ぎだ。
ははあ、一人ですかい。--阿紫花は心の中で呟いて、勝の横たわるベッドに腰を下ろした。起きるかと思ったが、眠ったままだ。
「ありゃ。……」
阿紫花は呟き、「窓開いてるじゃねえか」
勝の頭が向いている先の窓が開いていた。先ほどから急に激しい雨が降り出している。立ち上がり窓を閉める時、湿気を含んだ冷たい風が、鼻先をかすめた。冷たい雨だ。急に気温が下がった。
さて、と阿紫花が振り返り、勝の枕元に近づく--その時。
「……ァッ」
勝が急に起き上がった。「うわああああッ!」
悪い夢でも見たのか。内容は--阿紫花にも見当がついた。
軽井沢で九死に一生を得たのは、ほんの少し前だ。
「は……っ」
勝は恐慌状態にあるように泣いていた。これ以上大量の涙など流せまい程に泣いている。「鳴海……兄ちゃん……っ」
阿紫花はふと。
奇妙な表情で勝の肩に触れた。
勝が振り返る。
「……っ」
「お目覚めですかい」
「あ……」
立ったままの阿紫花は、勝を見下ろしていた。
どこか寂しそうな目だ。
その目が奇妙に勝の心に残る。
「阿紫花……さん」
勝はシーツで涙を拭った。「来てたの」
「へえ。--無用心でやすね。ここまで素通りで来れやしたぜ。あのお嬢さんは?」
勝は一瞬「阿紫花さんにはお金をまだ払っていない。誰かに頼まれてまた僕を殺しに来たのかしら」と疑ったが、違うようだ。十億以上出せる親族はいないはずだ。
それに阿紫花は相変わらず伝法な口調だが、どこか明るい。以前殺意丸出しで近づいてきた時とは違う。
「しろがねは……多分、買い物かな。僕の……服とか、買ってくるって言ってたから」
勝は首を動かし、土砂降りになりつつある窓を見上げた。
「雨、すごいね……」
「……」
「しろがね、傘持ってるかなあ」
勝の呟きに、阿紫花はくすりと笑う。
「--じゃ、あたしはこれで」
「え?」
「パチンコで勝っちまってね。ケーキなんて似合わねえモン持ってきたんでさ。二個切りっきゃねえから、あのお嬢さんと食って下せェ」
阿紫花は小さな箱をベッド脇のテーブルに置く。
勝は目を丸くし、
「パチンコ……テレビで見たよ。いっぱい銀色の玉を取ると、お菓子とか缶詰くれるんでしょ?……ケーキも置いてあるの?」
「……あるんですねえ、これが。坊やも大人になったら自分で見てみなせェ。じゃ、あたしはこれで」
ククク、と童話のチェシャ猫のように阿紫花は笑い、背を向ける。ドアまで歩いていく。
勝は声で追いすがった。
「阿紫花さんッ!--行かないで」
阿紫花は振り向いた。
「……」
「あ……その……。ごめん、……」
勝はベッドの上で小さく俯いた。大き目の病院衣の隙間から、瘡蓋だらけの皮膚が見える。
「何でもない……ばいばい……」
沈んだ表情で勝はそう言った。子どもらしくない態度だ。気を遣っている。
「阿紫花さん帰っちゃうな」と、歩き始めた阿紫花の革靴の底の音に、勝は項垂れる。しかし。
「暗ェ面してっと、雨も晴れやせんや」
阿紫花の声が近くでして、急に腰を掴まれて持ち上げられた。
そして抱きかかえられる。
「うあっ」
「お、やっぱこれくれえは重てえもんでさあね」
阿紫花はベッドに腰を下ろし、勝を後ろから抱きかかえた。
コートで包むように勝の身体を強く抱く。
「ガキが気を遣っても、いい事ァありやせんぜ、坊や。あたしに気を遣ったって無駄無駄。アンタに雇われてんだし、--ガキは泣いたり怒ったりうるせえのがフツーでさ。大人の都合なんざ無視しまくりでさ。……あたしで良けりゃ、聞いてやりやすぜ。悪い夢でも見ちまったんでしょ?」
「……」
「泣くだけ泣きなせえよ。あたしゃ、男だから泣くんじゃねえ、なんて馬鹿は言いやせんよ。泣きたい時に泣けるのが、一番でさ」
「鳴海、兄ちゃんが」
勝の声は震えている。「言ったんだ」
『笑うべきだと分かった時は、』
「泣くもんじゃないぜ、って……。僕生きてるよね?助かって、嬉しいはずなんだよね?……」
「……」
「だったら笑えば、いいんだよね?本当は、助かって、感謝して、僕、強くならなきゃいけないんだよね?」
勝の声が、ブレている。「でも全然笑えないんだよ」
嗚咽が、コートの中から聞こえる。
「鳴海兄ちゃんが助けてくれたのに、全然……笑えない。笑えないよ。僕、こんななら助からなきゃ良かった」
「……」
「どうしてこんな事になっちゃうんだよ」
勝は涙を流した。
阿紫花はコートの前を引っ張り、勝の前で掻き合わせた。
「泣きなせぇ」
「う、うっく、」
「泣ける時はね、坊や、泣きなせェ。……あの兄さんの言いそうなこった。笑うべき、なんつって、……テメェが消えたらどうしようもねえってのに。……」
「~~~ッゴメ、ゴメン、ね、コート、」
勝はコートの前を掻き抱き、目に押し当てた。涙で濡れる。
細い身体だ。阿紫花は見下ろし、--糸のように目を細めた。
「構いやせんよ。こんな薄汚ねェコート、縋って泣いてくれンのは坊やくれえでさ」
阿紫花は勝を抱く手に力を込める。そして窓を見上げる。
土砂降りの雨が降り続いている。
「泣いていいんですぜ。……雨みてえに、土砂降っちまいなせえ。雨だって必要だから降ってんでしょ?じゃあ止めねえ方がいいじゃねえですか」
ぽん、と頭を撫でる。
「いつか晴れまさ……。そん時はちゃんと、笑いなせェよ」
「……阿紫花さん」
くすっ、と。
勝が鼻を鳴らして阿紫花を見た。「お祖父ちゃんみたいだね」
「ええ?坊やの……そんなご大層なお人と比べられちゃ、なんか照れちまいやすよ」
そう、阿紫花はかすかに笑った。
しろがねは走っていた。
傘が無い。近くの商店街で買い物をしていると、強い雨が降り出した。わずかに弱まったのを見計らって雨空の下に飛び出したが、それでも雨は両腕に抱いた荷物を濡らしていく。
「お坊ちゃまの服を濡らしては申し訳ない」
肩から下げたバッグの中には重要書類も入っている。しかしそれよりも、新しく買った勝の寝巻きや外出着を濡らしたくなかった。
--飛び込むように、病院に入る。自分は大分濡れたが、荷物はそれほど濡れていない。安堵して、注意されない程度の早足で勝の病室を目指した。
勝の病室のドアをノックしようと、手を挙げた時。
中から勝の声がした。
はっと息を飲んだ。
「僕ね。阿紫花さん。しろがねにだけは泣いてる顔、見られたくないんだ」
阿紫花のコートに包まり、ザーッ、という雨音を聞きながら、勝は呟く。
「僕が泣いたら、しろがね、本当に可哀想な目をするんだ。……しろがね、優しいよ。すぐに抱きしめて、僕を『かわいそうなお坊ちゃま』って言ってくれるんだ」
「でしょうねえ」
「……さっきの阿紫花さんの目に、少しだけ似てる」
飛び起きて最初に見た阿紫花の目だ。
「淋しそうで、何かガマンしてるみたいで、……」
「……そんなでした?あたし」
「うん。お祖父ちゃんみたいだな、って思ったよ。優しくて、僕を心配してくれて。……でも、しろがねはもっと、『悲しい』目をしてる。一人ぼっちみたいな」
ぎゅ、と勝はコートを掴んだ。
「しろがねが泣きそうなのは、嫌だ。僕のせいでしろがねが悲しい目になるの、すっごく嫌だ」
そこだけは強い口調で、勝が言い切った。
「だから、しろがねの前では泣かないでいたいんだ」
そ、っと。
しろがねは腕を下ろした。
荷物を抱えたまま、足音を立てずにドアから離れる。
頭をめぐらせた先には、待合に使う小スペースがある。
びしょ濡れのまま、静かにしろがねは歩いていった。
「そんな事気にするから、ガキらしくねェんでやすよ、坊や」
阿紫花は言う。「大人がテメェの都合でアンタに構ってんなら、どんな面しようが、あのお嬢さんの勝手でさ。いいじゃねえですか。泣きそうでも、一人ぼっちでも。アンタに構いたくてあのお嬢さんが寄って来たんでやしょ?事情は知らねえが」
「うん……僕も知らない」
「あのお嬢さんにゃ、なんか事情があるんでしょうよ。テメエのために坊やを守ろうってんだ、好きにさせときなせえ」
「でも……」
「じゃ坊やは、あのお嬢さんがどんな面してりゃ満足なんで?泣かなきゃいい、ってだけじゃ、人は人形と同じでやす」
勝は目を見開く。
「僕……」
「誰も助けちゃくれねえ。警察も、頼りにならねえ。大人は誰が信じられるのか分からねえ。アンタの命を狙う連中の道理ってヤツは、アンタが道理と思う事じゃねえ」
「……」
「泣いても叫んでも誰も来ねえ。誰に裏切られたって、ガキは丸まってるしかねえ。殴られても蹴られても、もっとひでえ目にあっても、連中はやり遂げる。金でなんでもしちまう。アンタが考えもしねえヒドイコトを平気でやる。--あたしもそうだから、よく分かンのさ」
「……!」
息を呑んだ勝は、振り向いて身をよじった。
阿紫花は--冷えた目をしていたが、
「あのお嬢さんが、坊やを守ってくれやすよ」
そう言って笑った。
瞳に温度が戻る。
「あのお嬢さんも、色んな世界を見て来たのかも知れねえよ、坊や」
「……」
「泣くな、って言ってやるより、泣けと言ってやるのも、男じゃねえのかね。坊やはまだ小せえよ。でも大人になりゃ、こうやって、」
と、阿紫花は勝の小さな肩を包む。
「抱いて慰めてやれやすよ」
「……」
どこか祈るような声だ。--勝はそう思った。
阿紫花は勝の肩を抱きしめたまま、
「抱擁ってのは便利でね。こうして慰めたり、……大好きだって証明してやったりね。女相手だとこりゃもー、最っ高に効果が……冗談でやすよ、冗談」
訝しげに身を引こうとする勝に阿紫花は弁解し笑う。
勝は眉尻を下げ、
「阿紫花さんも、……淋しいの?」
「え?」
「ううん、なんでもない。……僕、しろがねに笑ってもらいたいな」
小さく、しかし泣いてはいない声で勝は呟く。「泣いたり、笑ったりしながら、……ずっと一緒に、いたい。それじゃダメかなあ?」
そう問いかける勝の純粋な目に、阿紫花は口角を引き上げた。
「アンタはいい男になりやすよ、坊や。あたしみてえな色男にね」
「え……阿紫花さんみたいな?」
「なんでそんな嫌そうなんでさ!」
ぐりぐりと阿紫花にくすぐられ、勝は笑い泣きの態で暴れた。
「ひゃっ、ひゃっ、ごめんっ!嫌じゃないけど!ひゃひゃひゃ!」
「生意気言う坊やはこうしてやりまさ!」
「ひゃっ、やめて!くすぐったいよぉ!」
本当に久しぶりに。
勝は笑う事が出来た。
枕の上に座る勝の膝にタオルケットを掛け、阿紫花は戸口へ向かった。
「じゃ、また。坊や。大人しく寝てなせえよ」
「寝てるの飽きちゃった。早く外に……出たら、阿紫花さんにお金払わないとね……」
そうしたらもう逢えない。
淋しいのだろう、勝は俯く。
あえて阿紫花は背を向けた。
「坊や、お代さえいただけりゃ、あたしはサヨナラするだけでさあ。あたしみてえな下らねえ半端者に、金輪際関わっちゃいけやせんよ」
「阿紫花さんは違うよ」
勝の声に、阿紫花は振り向く。
「僕を助けてくれた。僕、忘れないからね」
「……」
「ホウヨウ、とか、覚えておくよ。誰かにしてあげる。泣いてる人とかいたら、してあげるんだ」
阿紫花は一瞬淋しそうな目をし、何か呟いた。
「……坊やが……ならなぁ……」
「え?」
「なんでもありやせん。抱擁すんのはいいですが、変な連中にゃしちゃいけやせんよ。アマっ子専門にしときなせえ」
「?」
「じゃ、坊や」
苦笑しながら阿紫花は出て行った。
ドアを閉め、阿紫花はふと気づく。
革靴の底がやけに滑る。
水滴だ。誰かが水を滴らせたようだ。
「……」
廊下を見回す。壁の陰の待合スペースのソファに誰かが座っているのが見えた。
銀髪--しろがねだ。
近づいて様子を伺う。
背中しか見えなかったので、横に回りこんでみると、しろがねはまっすぐ前を見つめていた。
びしょ濡れだ。傍らにはあまり濡れていない紙袋がある。抱きかかえて来たのか。
「……水も滴るって、日本語、知ってやす?」
「……」
阿紫花のジョークに、何も返さない。ただ前を見つめている。怖いくらいに真剣な、しかし何も見えていない目。
人形の目だ。
「坊やがね」
「……!」
しろがねは振り向いた。
阿紫花は苦笑する。
「嬢ちゃんと、これから先ずっと一緒にいてえんだと。そう笑ってやしたよ」
「……お坊ちゃま」
「行ってやりなせえよ」
人形の目が、揺らいだ。泣きそうに歪む。
両手で胸を押さえ、しろがねはうつむいた。何かをこらえるように。
「どっか苦しいんで?」
「……私は坊ちゃまを笑顔に出来ない……」
だから苦しい、とでも言うように、しろがねは呟いた。
「私は笑えない、--人形だ」
「……」
「鳴海のようには、私は……」
静かな声だ。「坊ちゃまの笑顔にはなれない」
悲しい声だ。
「……若ェのに、何言ってやがんでえ」
阿紫花は笑った。「賢いってのはいけねえやね。先の事見えてる気になっちまうんでしょーが、明日の事なんて誰に分かンでさ。明日が雨か晴れか雪か嵐かも分かンねえ癖して。今日が雨でも、明日は晴れらあね。今日が雨だからって、明日も泣くつもりかい?」
「……」
「坊やにゃ、もうアンタしかいねェんじゃねェのかい」
「……!」
だっ、と。
立ち上がったしろがねは走り出した。
「どうしたの?しろがね」という声が聞こえたが、阿紫花は黙って立ち去った。
思い出話をしよう。
冷たい部屋だった。
遺体を置く地下室だ。無理も無い。ドライアイスも、冷凍庫も無い。冷房だけをやたらと掛けてあるだけだ。
まだ本格的に痛み出してはいないのだろう、臭いは無かった。だが誰かがお香を焚いてくれている。線香とは違う、刺激的ないい匂いがした。
「坊ちゃま。……」
後ろからしろがねが、勝の肩を押さえる。行かせたくないのではない。勝が悲しむのが辛いのだ。
前を向いたまま、勝は答えた。
「大丈夫だよ、しろがね。……」
「でも……」
「泣きたい時は泣いていいんだよ、しろがね」
振り向き、しろがねの目を見つめ、勝は言った。
「ギイさんと、僕はさよならしたよ。でも今も、僕、泣きたい気持ちだ。多分しばらくずっと、泣きたいままだと思う」
「坊ちゃま……」
「泣いて。しろがね。泣いて泣いて、飽きたら笑おうよ」
う……、と、しろがねはこみ上げる涙を抑えきれずに嗚咽する。
泣くしろがねの肩を、鳴海が抱きしめた。
二人のそんな様子を認めてから、勝は歩き出した。
「平馬……」
「坊ちゃまに、似ているから、行かせたくない」
嗚咽の中、しろがねはそう漏らした。
鳴海は問い返す。
「え?誰が?」
「アナタを喪った、坊ちゃまに、そっくりだから……」
「平馬……」
小さな肩だ。--勝はそう思った。
祖父の記憶を追体験したからよく分かる。自分たちは本当に無力で、小さい。
阿紫花の顔は綺麗だった。身体は見せられない、ときつくシーツで覆われている。だが顔はむき出しだ。
「阿紫花さん。……少し、笑ってる」
確かに、阿紫花の死体は少し笑っているように見えた。
勝は平馬の横に立ち、……平馬の顔を覗き込んだ。
大きく目を見開いたまま、平馬は動かない。
「平……」
声を掛けた時、背後の廊下で泣き声がした。
涼子だ。
「直してよ!直して!……」
「出来ないよ、お嬢ちゃん……」
悲しげなフウの声がした。「それはあたしには出来ない」
「アルレッキーノを直して!パンタローネも、元に戻して!」
「出来ないよ、頭を吹き飛ばされて、それにもう時間が経ち過ぎた。あたしでも壊れちまった思考機関の復元は出来ない。神様だって、出来ないよ」
「嘘!」
弾け飛ぶような泣き声だった。
「どうして元に戻せないの!人形なのに!壊れただけなら、元に戻して!」
うわああ、と涼子は祖父の胸で泣き出した。
法安は孫娘を抱きしめた。
「涼子。……」
「直して、直してェ……、人形なら死なないはずよ」
直して、と泣きながら繰り返す涼子に、法安は悲しげに囁いた。
「……だからいつかまた会えるじゃろうて。天幕の中でなあ……」
涼子の嗚咽にも、平馬は振り向かなかった。
時が止まったように、阿紫花の死体を見つめているだけだ。
「平……」
平馬の手を握ろうと、勝が触れた瞬間。
思い切り平馬は振り払った。
勝は目を見開くが、平馬はこちらを見ない。凍ったまま、阿紫花を見つめている。
「……平馬!」
勝は。
平馬を後ろから抱きしめた。
「阿紫花さんが言ったんだ」
暴れかけ、身じろぎした平馬に、早口で勝は言い聞かせた。
「悲しい時は泣いていい、って」
『泣くな、って言ってやるより、泣けと言ってやるのも、男じゃねえのかね』
「それを言われて、僕はやっと楽になったんだ。平馬、阿紫花さんは、泣いてる僕をこうやって後ろから、抱きしめてくれたんだ」
「……なんで」
平馬がやっと、声を出した。
「いっつも勝ばっかなんだよ。……英兄ィ、なんで、勝ばっか……っ」
ず、と鼻をすする音がした。そして涙声がした。
「なんで勝にばっか優しくしてんだよ、兄貴!」
「違うよ、平馬。阿紫花さんは、僕に優しくしたかったんじゃない」
勝の記憶の中の阿紫花の目は、時折淋しげだ。
病室へ見舞いに来てくれて、目覚めて最初に見た顔も、祈るように勝を抱きしめた時も、
「平馬に優しくしたかったんだよ。僕にじゃない、僕を、平馬の代わりに、抱きしめてただけだったんだ」
「~~っ、なんで……っなんでっ」
ばっ、と平馬は振り向いた。
その目には涙が零れている。
勝は平馬を抱きしめた。
「泣いて、平馬。僕も泣く、から……」
「う、うわああぁ……」
「僕に、こうしろって阿紫花さんが言ったんだ」
『抱擁ってのは便利でね。こうして慰めたり、……大好きだって証明してやったりね』
「大好きだったんだ。阿紫花さんは、平馬が大好きだったんだ」
「兄貴ィ……っ」
「でも好き過ぎて、大事で、遠ざけてしまう事もあるんだよ、平馬」
祖父の記憶、感情を追体験させられた勝には、少し分かる。しろがねを、祖父はやむなく遠ざけた。ルシールも、娘を追放した。
それしかなかったと、勝は思う。
でも大人って、子どもが思うよりずっと、不器用なんだ。
「そんな愛し方しか見つからない事もあるんだ」
「でも、やだよっ……やだよぅ……兄貴ィ……」
「だから泣こう、平馬。泣いて泣いて、そしていつか、」
思い出話をしよう。
平馬。
思い出が思い出になる前に。
「僕たちはあの人が大好きだった」
ずっと、覚えていよう……。
天幕の中、また会う日まで。
薄暗がりの幕間に、男が立っている。
--泣き虫な坊やたちでやすねえ。
タバコを咥え、男は笑って黒手袋を嵌めた手を掲げる。
--あたしはちょいと、頂き損ねたお代を頂きに行って来やすよ……。
軽薄な男だった。軽薄で、無責任で、逸脱した男だった。
下り行く幕の中、男は笑う。
--今日が雨でも、明日は晴れらあね。そん時はちゃんと、笑いなせェよ……。
そして幕が下り。
微笑いながら男は退場した。
END
インテルメディ=幕間劇。
思い出話をしよう。
怪我も病気も人並みにしてきたつもりであるが、思い出せばどれも生死に関わるものではない。舐めて治る傷や寝れば治る病気、病院などそうそう行った事が無い。
病院に縁の薄い野良猫のような男は、不慣れゆえの大人しさで静かに廊下を歩いてきた。路上でするように、若く美しい女がいても声を掛けたりしない。相手が勤務中の看護婦だったせいもある。
個室の並ぶ階まで、階段で昇る。階下とは打って変わって人気のない廊下だ。その奥の、プレートのない部屋の扉を、男は叩扉した。
応えは無い。
そっと、ドアを開けた。
少年--才賀勝は眠っていた。
付き人のしろがねはいないようだ。何か雑務で席を外しているのだろう。時計を見ると午後3時過ぎだ。
ははあ、一人ですかい。--阿紫花は心の中で呟いて、勝の横たわるベッドに腰を下ろした。起きるかと思ったが、眠ったままだ。
「ありゃ。……」
阿紫花は呟き、「窓開いてるじゃねえか」
勝の頭が向いている先の窓が開いていた。先ほどから急に激しい雨が降り出している。立ち上がり窓を閉める時、湿気を含んだ冷たい風が、鼻先をかすめた。冷たい雨だ。急に気温が下がった。
さて、と阿紫花が振り返り、勝の枕元に近づく--その時。
「……ァッ」
勝が急に起き上がった。「うわああああッ!」
悪い夢でも見たのか。内容は--阿紫花にも見当がついた。
軽井沢で九死に一生を得たのは、ほんの少し前だ。
「は……っ」
勝は恐慌状態にあるように泣いていた。これ以上大量の涙など流せまい程に泣いている。「鳴海……兄ちゃん……っ」
阿紫花はふと。
奇妙な表情で勝の肩に触れた。
勝が振り返る。
「……っ」
「お目覚めですかい」
「あ……」
立ったままの阿紫花は、勝を見下ろしていた。
どこか寂しそうな目だ。
その目が奇妙に勝の心に残る。
「阿紫花……さん」
勝はシーツで涙を拭った。「来てたの」
「へえ。--無用心でやすね。ここまで素通りで来れやしたぜ。あのお嬢さんは?」
勝は一瞬「阿紫花さんにはお金をまだ払っていない。誰かに頼まれてまた僕を殺しに来たのかしら」と疑ったが、違うようだ。十億以上出せる親族はいないはずだ。
それに阿紫花は相変わらず伝法な口調だが、どこか明るい。以前殺意丸出しで近づいてきた時とは違う。
「しろがねは……多分、買い物かな。僕の……服とか、買ってくるって言ってたから」
勝は首を動かし、土砂降りになりつつある窓を見上げた。
「雨、すごいね……」
「……」
「しろがね、傘持ってるかなあ」
勝の呟きに、阿紫花はくすりと笑う。
「--じゃ、あたしはこれで」
「え?」
「パチンコで勝っちまってね。ケーキなんて似合わねえモン持ってきたんでさ。二個切りっきゃねえから、あのお嬢さんと食って下せェ」
阿紫花は小さな箱をベッド脇のテーブルに置く。
勝は目を丸くし、
「パチンコ……テレビで見たよ。いっぱい銀色の玉を取ると、お菓子とか缶詰くれるんでしょ?……ケーキも置いてあるの?」
「……あるんですねえ、これが。坊やも大人になったら自分で見てみなせェ。じゃ、あたしはこれで」
ククク、と童話のチェシャ猫のように阿紫花は笑い、背を向ける。ドアまで歩いていく。
勝は声で追いすがった。
「阿紫花さんッ!--行かないで」
阿紫花は振り向いた。
「……」
「あ……その……。ごめん、……」
勝はベッドの上で小さく俯いた。大き目の病院衣の隙間から、瘡蓋だらけの皮膚が見える。
「何でもない……ばいばい……」
沈んだ表情で勝はそう言った。子どもらしくない態度だ。気を遣っている。
「阿紫花さん帰っちゃうな」と、歩き始めた阿紫花の革靴の底の音に、勝は項垂れる。しかし。
「暗ェ面してっと、雨も晴れやせんや」
阿紫花の声が近くでして、急に腰を掴まれて持ち上げられた。
そして抱きかかえられる。
「うあっ」
「お、やっぱこれくれえは重てえもんでさあね」
阿紫花はベッドに腰を下ろし、勝を後ろから抱きかかえた。
コートで包むように勝の身体を強く抱く。
「ガキが気を遣っても、いい事ァありやせんぜ、坊や。あたしに気を遣ったって無駄無駄。アンタに雇われてんだし、--ガキは泣いたり怒ったりうるせえのがフツーでさ。大人の都合なんざ無視しまくりでさ。……あたしで良けりゃ、聞いてやりやすぜ。悪い夢でも見ちまったんでしょ?」
「……」
「泣くだけ泣きなせえよ。あたしゃ、男だから泣くんじゃねえ、なんて馬鹿は言いやせんよ。泣きたい時に泣けるのが、一番でさ」
「鳴海、兄ちゃんが」
勝の声は震えている。「言ったんだ」
『笑うべきだと分かった時は、』
「泣くもんじゃないぜ、って……。僕生きてるよね?助かって、嬉しいはずなんだよね?……」
「……」
「だったら笑えば、いいんだよね?本当は、助かって、感謝して、僕、強くならなきゃいけないんだよね?」
勝の声が、ブレている。「でも全然笑えないんだよ」
嗚咽が、コートの中から聞こえる。
「鳴海兄ちゃんが助けてくれたのに、全然……笑えない。笑えないよ。僕、こんななら助からなきゃ良かった」
「……」
「どうしてこんな事になっちゃうんだよ」
勝は涙を流した。
阿紫花はコートの前を引っ張り、勝の前で掻き合わせた。
「泣きなせぇ」
「う、うっく、」
「泣ける時はね、坊や、泣きなせェ。……あの兄さんの言いそうなこった。笑うべき、なんつって、……テメェが消えたらどうしようもねえってのに。……」
「~~~ッゴメ、ゴメン、ね、コート、」
勝はコートの前を掻き抱き、目に押し当てた。涙で濡れる。
細い身体だ。阿紫花は見下ろし、--糸のように目を細めた。
「構いやせんよ。こんな薄汚ねェコート、縋って泣いてくれンのは坊やくれえでさ」
阿紫花は勝を抱く手に力を込める。そして窓を見上げる。
土砂降りの雨が降り続いている。
「泣いていいんですぜ。……雨みてえに、土砂降っちまいなせえ。雨だって必要だから降ってんでしょ?じゃあ止めねえ方がいいじゃねえですか」
ぽん、と頭を撫でる。
「いつか晴れまさ……。そん時はちゃんと、笑いなせェよ」
「……阿紫花さん」
くすっ、と。
勝が鼻を鳴らして阿紫花を見た。「お祖父ちゃんみたいだね」
「ええ?坊やの……そんなご大層なお人と比べられちゃ、なんか照れちまいやすよ」
そう、阿紫花はかすかに笑った。
しろがねは走っていた。
傘が無い。近くの商店街で買い物をしていると、強い雨が降り出した。わずかに弱まったのを見計らって雨空の下に飛び出したが、それでも雨は両腕に抱いた荷物を濡らしていく。
「お坊ちゃまの服を濡らしては申し訳ない」
肩から下げたバッグの中には重要書類も入っている。しかしそれよりも、新しく買った勝の寝巻きや外出着を濡らしたくなかった。
--飛び込むように、病院に入る。自分は大分濡れたが、荷物はそれほど濡れていない。安堵して、注意されない程度の早足で勝の病室を目指した。
勝の病室のドアをノックしようと、手を挙げた時。
中から勝の声がした。
はっと息を飲んだ。
「僕ね。阿紫花さん。しろがねにだけは泣いてる顔、見られたくないんだ」
阿紫花のコートに包まり、ザーッ、という雨音を聞きながら、勝は呟く。
「僕が泣いたら、しろがね、本当に可哀想な目をするんだ。……しろがね、優しいよ。すぐに抱きしめて、僕を『かわいそうなお坊ちゃま』って言ってくれるんだ」
「でしょうねえ」
「……さっきの阿紫花さんの目に、少しだけ似てる」
飛び起きて最初に見た阿紫花の目だ。
「淋しそうで、何かガマンしてるみたいで、……」
「……そんなでした?あたし」
「うん。お祖父ちゃんみたいだな、って思ったよ。優しくて、僕を心配してくれて。……でも、しろがねはもっと、『悲しい』目をしてる。一人ぼっちみたいな」
ぎゅ、と勝はコートを掴んだ。
「しろがねが泣きそうなのは、嫌だ。僕のせいでしろがねが悲しい目になるの、すっごく嫌だ」
そこだけは強い口調で、勝が言い切った。
「だから、しろがねの前では泣かないでいたいんだ」
そ、っと。
しろがねは腕を下ろした。
荷物を抱えたまま、足音を立てずにドアから離れる。
頭をめぐらせた先には、待合に使う小スペースがある。
びしょ濡れのまま、静かにしろがねは歩いていった。
「そんな事気にするから、ガキらしくねェんでやすよ、坊や」
阿紫花は言う。「大人がテメェの都合でアンタに構ってんなら、どんな面しようが、あのお嬢さんの勝手でさ。いいじゃねえですか。泣きそうでも、一人ぼっちでも。アンタに構いたくてあのお嬢さんが寄って来たんでやしょ?事情は知らねえが」
「うん……僕も知らない」
「あのお嬢さんにゃ、なんか事情があるんでしょうよ。テメエのために坊やを守ろうってんだ、好きにさせときなせえ」
「でも……」
「じゃ坊やは、あのお嬢さんがどんな面してりゃ満足なんで?泣かなきゃいい、ってだけじゃ、人は人形と同じでやす」
勝は目を見開く。
「僕……」
「誰も助けちゃくれねえ。警察も、頼りにならねえ。大人は誰が信じられるのか分からねえ。アンタの命を狙う連中の道理ってヤツは、アンタが道理と思う事じゃねえ」
「……」
「泣いても叫んでも誰も来ねえ。誰に裏切られたって、ガキは丸まってるしかねえ。殴られても蹴られても、もっとひでえ目にあっても、連中はやり遂げる。金でなんでもしちまう。アンタが考えもしねえヒドイコトを平気でやる。--あたしもそうだから、よく分かンのさ」
「……!」
息を呑んだ勝は、振り向いて身をよじった。
阿紫花は--冷えた目をしていたが、
「あのお嬢さんが、坊やを守ってくれやすよ」
そう言って笑った。
瞳に温度が戻る。
「あのお嬢さんも、色んな世界を見て来たのかも知れねえよ、坊や」
「……」
「泣くな、って言ってやるより、泣けと言ってやるのも、男じゃねえのかね。坊やはまだ小せえよ。でも大人になりゃ、こうやって、」
と、阿紫花は勝の小さな肩を包む。
「抱いて慰めてやれやすよ」
「……」
どこか祈るような声だ。--勝はそう思った。
阿紫花は勝の肩を抱きしめたまま、
「抱擁ってのは便利でね。こうして慰めたり、……大好きだって証明してやったりね。女相手だとこりゃもー、最っ高に効果が……冗談でやすよ、冗談」
訝しげに身を引こうとする勝に阿紫花は弁解し笑う。
勝は眉尻を下げ、
「阿紫花さんも、……淋しいの?」
「え?」
「ううん、なんでもない。……僕、しろがねに笑ってもらいたいな」
小さく、しかし泣いてはいない声で勝は呟く。「泣いたり、笑ったりしながら、……ずっと一緒に、いたい。それじゃダメかなあ?」
そう問いかける勝の純粋な目に、阿紫花は口角を引き上げた。
「アンタはいい男になりやすよ、坊や。あたしみてえな色男にね」
「え……阿紫花さんみたいな?」
「なんでそんな嫌そうなんでさ!」
ぐりぐりと阿紫花にくすぐられ、勝は笑い泣きの態で暴れた。
「ひゃっ、ひゃっ、ごめんっ!嫌じゃないけど!ひゃひゃひゃ!」
「生意気言う坊やはこうしてやりまさ!」
「ひゃっ、やめて!くすぐったいよぉ!」
本当に久しぶりに。
勝は笑う事が出来た。
枕の上に座る勝の膝にタオルケットを掛け、阿紫花は戸口へ向かった。
「じゃ、また。坊や。大人しく寝てなせえよ」
「寝てるの飽きちゃった。早く外に……出たら、阿紫花さんにお金払わないとね……」
そうしたらもう逢えない。
淋しいのだろう、勝は俯く。
あえて阿紫花は背を向けた。
「坊や、お代さえいただけりゃ、あたしはサヨナラするだけでさあ。あたしみてえな下らねえ半端者に、金輪際関わっちゃいけやせんよ」
「阿紫花さんは違うよ」
勝の声に、阿紫花は振り向く。
「僕を助けてくれた。僕、忘れないからね」
「……」
「ホウヨウ、とか、覚えておくよ。誰かにしてあげる。泣いてる人とかいたら、してあげるんだ」
阿紫花は一瞬淋しそうな目をし、何か呟いた。
「……坊やが……ならなぁ……」
「え?」
「なんでもありやせん。抱擁すんのはいいですが、変な連中にゃしちゃいけやせんよ。アマっ子専門にしときなせえ」
「?」
「じゃ、坊や」
苦笑しながら阿紫花は出て行った。
ドアを閉め、阿紫花はふと気づく。
革靴の底がやけに滑る。
水滴だ。誰かが水を滴らせたようだ。
「……」
廊下を見回す。壁の陰の待合スペースのソファに誰かが座っているのが見えた。
銀髪--しろがねだ。
近づいて様子を伺う。
背中しか見えなかったので、横に回りこんでみると、しろがねはまっすぐ前を見つめていた。
びしょ濡れだ。傍らにはあまり濡れていない紙袋がある。抱きかかえて来たのか。
「……水も滴るって、日本語、知ってやす?」
「……」
阿紫花のジョークに、何も返さない。ただ前を見つめている。怖いくらいに真剣な、しかし何も見えていない目。
人形の目だ。
「坊やがね」
「……!」
しろがねは振り向いた。
阿紫花は苦笑する。
「嬢ちゃんと、これから先ずっと一緒にいてえんだと。そう笑ってやしたよ」
「……お坊ちゃま」
「行ってやりなせえよ」
人形の目が、揺らいだ。泣きそうに歪む。
両手で胸を押さえ、しろがねはうつむいた。何かをこらえるように。
「どっか苦しいんで?」
「……私は坊ちゃまを笑顔に出来ない……」
だから苦しい、とでも言うように、しろがねは呟いた。
「私は笑えない、--人形だ」
「……」
「鳴海のようには、私は……」
静かな声だ。「坊ちゃまの笑顔にはなれない」
悲しい声だ。
「……若ェのに、何言ってやがんでえ」
阿紫花は笑った。「賢いってのはいけねえやね。先の事見えてる気になっちまうんでしょーが、明日の事なんて誰に分かンでさ。明日が雨か晴れか雪か嵐かも分かンねえ癖して。今日が雨でも、明日は晴れらあね。今日が雨だからって、明日も泣くつもりかい?」
「……」
「坊やにゃ、もうアンタしかいねェんじゃねェのかい」
「……!」
だっ、と。
立ち上がったしろがねは走り出した。
「どうしたの?しろがね」という声が聞こえたが、阿紫花は黙って立ち去った。
思い出話をしよう。
冷たい部屋だった。
遺体を置く地下室だ。無理も無い。ドライアイスも、冷凍庫も無い。冷房だけをやたらと掛けてあるだけだ。
まだ本格的に痛み出してはいないのだろう、臭いは無かった。だが誰かがお香を焚いてくれている。線香とは違う、刺激的ないい匂いがした。
「坊ちゃま。……」
後ろからしろがねが、勝の肩を押さえる。行かせたくないのではない。勝が悲しむのが辛いのだ。
前を向いたまま、勝は答えた。
「大丈夫だよ、しろがね。……」
「でも……」
「泣きたい時は泣いていいんだよ、しろがね」
振り向き、しろがねの目を見つめ、勝は言った。
「ギイさんと、僕はさよならしたよ。でも今も、僕、泣きたい気持ちだ。多分しばらくずっと、泣きたいままだと思う」
「坊ちゃま……」
「泣いて。しろがね。泣いて泣いて、飽きたら笑おうよ」
う……、と、しろがねはこみ上げる涙を抑えきれずに嗚咽する。
泣くしろがねの肩を、鳴海が抱きしめた。
二人のそんな様子を認めてから、勝は歩き出した。
「平馬……」
「坊ちゃまに、似ているから、行かせたくない」
嗚咽の中、しろがねはそう漏らした。
鳴海は問い返す。
「え?誰が?」
「アナタを喪った、坊ちゃまに、そっくりだから……」
「平馬……」
小さな肩だ。--勝はそう思った。
祖父の記憶を追体験したからよく分かる。自分たちは本当に無力で、小さい。
阿紫花の顔は綺麗だった。身体は見せられない、ときつくシーツで覆われている。だが顔はむき出しだ。
「阿紫花さん。……少し、笑ってる」
確かに、阿紫花の死体は少し笑っているように見えた。
勝は平馬の横に立ち、……平馬の顔を覗き込んだ。
大きく目を見開いたまま、平馬は動かない。
「平……」
声を掛けた時、背後の廊下で泣き声がした。
涼子だ。
「直してよ!直して!……」
「出来ないよ、お嬢ちゃん……」
悲しげなフウの声がした。「それはあたしには出来ない」
「アルレッキーノを直して!パンタローネも、元に戻して!」
「出来ないよ、頭を吹き飛ばされて、それにもう時間が経ち過ぎた。あたしでも壊れちまった思考機関の復元は出来ない。神様だって、出来ないよ」
「嘘!」
弾け飛ぶような泣き声だった。
「どうして元に戻せないの!人形なのに!壊れただけなら、元に戻して!」
うわああ、と涼子は祖父の胸で泣き出した。
法安は孫娘を抱きしめた。
「涼子。……」
「直して、直してェ……、人形なら死なないはずよ」
直して、と泣きながら繰り返す涼子に、法安は悲しげに囁いた。
「……だからいつかまた会えるじゃろうて。天幕の中でなあ……」
涼子の嗚咽にも、平馬は振り向かなかった。
時が止まったように、阿紫花の死体を見つめているだけだ。
「平……」
平馬の手を握ろうと、勝が触れた瞬間。
思い切り平馬は振り払った。
勝は目を見開くが、平馬はこちらを見ない。凍ったまま、阿紫花を見つめている。
「……平馬!」
勝は。
平馬を後ろから抱きしめた。
「阿紫花さんが言ったんだ」
暴れかけ、身じろぎした平馬に、早口で勝は言い聞かせた。
「悲しい時は泣いていい、って」
『泣くな、って言ってやるより、泣けと言ってやるのも、男じゃねえのかね』
「それを言われて、僕はやっと楽になったんだ。平馬、阿紫花さんは、泣いてる僕をこうやって後ろから、抱きしめてくれたんだ」
「……なんで」
平馬がやっと、声を出した。
「いっつも勝ばっかなんだよ。……英兄ィ、なんで、勝ばっか……っ」
ず、と鼻をすする音がした。そして涙声がした。
「なんで勝にばっか優しくしてんだよ、兄貴!」
「違うよ、平馬。阿紫花さんは、僕に優しくしたかったんじゃない」
勝の記憶の中の阿紫花の目は、時折淋しげだ。
病室へ見舞いに来てくれて、目覚めて最初に見た顔も、祈るように勝を抱きしめた時も、
「平馬に優しくしたかったんだよ。僕にじゃない、僕を、平馬の代わりに、抱きしめてただけだったんだ」
「~~っ、なんで……っなんでっ」
ばっ、と平馬は振り向いた。
その目には涙が零れている。
勝は平馬を抱きしめた。
「泣いて、平馬。僕も泣く、から……」
「う、うわああぁ……」
「僕に、こうしろって阿紫花さんが言ったんだ」
『抱擁ってのは便利でね。こうして慰めたり、……大好きだって証明してやったりね』
「大好きだったんだ。阿紫花さんは、平馬が大好きだったんだ」
「兄貴ィ……っ」
「でも好き過ぎて、大事で、遠ざけてしまう事もあるんだよ、平馬」
祖父の記憶、感情を追体験させられた勝には、少し分かる。しろがねを、祖父はやむなく遠ざけた。ルシールも、娘を追放した。
それしかなかったと、勝は思う。
でも大人って、子どもが思うよりずっと、不器用なんだ。
「そんな愛し方しか見つからない事もあるんだ」
「でも、やだよっ……やだよぅ……兄貴ィ……」
「だから泣こう、平馬。泣いて泣いて、そしていつか、」
思い出話をしよう。
平馬。
思い出が思い出になる前に。
「僕たちはあの人が大好きだった」
ずっと、覚えていよう……。
天幕の中、また会う日まで。
薄暗がりの幕間に、男が立っている。
--泣き虫な坊やたちでやすねえ。
タバコを咥え、男は笑って黒手袋を嵌めた手を掲げる。
--あたしはちょいと、頂き損ねたお代を頂きに行って来やすよ……。
軽薄な男だった。軽薄で、無責任で、逸脱した男だった。
下り行く幕の中、男は笑う。
--今日が雨でも、明日は晴れらあね。そん時はちゃんと、笑いなせェよ……。
そして幕が下り。
微笑いながら男は退場した。
END
インテルメディ=幕間劇。
ギィと阿紫花の肉体年齢がほぼ一緒だったら戸惑うなあ、と思い書きました。確実にギィは若作りをしている。ヘタすると十歳くらい。
私は経験で「若者は自分より年上の人間の年齢が分からない」んだと思ってますが、どうだろう。
鳴海は年上を敬う中国に長い事いたから、結構分かろうとして分かっていると思う。勝は頭いいから、「〇〇さんって40歳くらいなのかな?」とか考えてそう。阿紫花はそっちの筋の世界にいるので、鈍感ながらも割りと人を見ていそうだし。
そういう事に一番鈍感なのはジョージだと思う。なんとなく。
思いのほか若いと思うんだ、ジョジ。尻が若そう(どういう理由よ)
実際のところは分からなかったので、ジョージの年齢とか。もっと年上でも年下でもいいですね。なんかこういう雰囲気の話が書きたかったんだと思って下さい。
私は経験で「若者は自分より年上の人間の年齢が分からない」んだと思ってますが、どうだろう。
鳴海は年上を敬う中国に長い事いたから、結構分かろうとして分かっていると思う。勝は頭いいから、「〇〇さんって40歳くらいなのかな?」とか考えてそう。阿紫花はそっちの筋の世界にいるので、鈍感ながらも割りと人を見ていそうだし。
そういう事に一番鈍感なのはジョージだと思う。なんとなく。
思いのほか若いと思うんだ、ジョジ。尻が若そう(どういう理由よ)
実際のところは分からなかったので、ジョージの年齢とか。もっと年上でも年下でもいいですね。なんかこういう雰囲気の話が書きたかったんだと思って下さい。
年の差なんて
「ギイさんのお肌綺麗よね~」
ミンシアは惚れ惚れと見つめる。「羨ましいわ」
「僕にはアナタの張りのあるバラ色の頬の方が美しく見えますよ、お嬢さん」
ギイは狙いすました様に笑みを浮かべる。
鳴海はその背後で「ケッ」と小さく舌打ちする。
「姐さん、こんなマザコンに構っちゃいけねえぜ。ヘ、人形としかイチャこけねえマザコン野郎だ」
「まあミンハイ、ギイさんは命の恩人じゃないの。それに年上なのよ?そんな失礼な口を聞いちゃいけないわ」
ミンシアは姉の顔でそう言うが、ギイは鳴海の言葉など意に介した様子もなく紅茶を啜っている。
絵になる様のギイに対し、行儀悪く椅子に後ろ向きに座る阿紫花が、
「へえ、ギイさん結構年上なんですかね。あたしゃてっきり、鳴海の兄さんと同い年くれえかと思ってやした」
「馬鹿な」
ギイは紅茶のカップをテーブルに置き肩をすくめた。
「阿紫花、褒め過ぎだよ。いくら僕が若く見えようとも、こんなネンネと一緒にしないでくれたまえ。君だってあまり若く見られたくないだろ?」
「そいつぁそうでやすねえ。確かに、こン歳で鳴海の兄さんと同じに見られちゃ、男として居心地悪ィってなもんでさ」
のほほん、と阿紫花とギイは会話をする横で。
ジョージはカップを片手に、
「……おい」
と、不機嫌そうな声を出した。
「あら、レモンティーが良かった?メイド人形に言って--」
「いやブラック(ストレートの事)でいい。そうではなくて、……誰と誰が、同じ歳だって?」
不機嫌なのではない。不可思議なのだ。
ジョージ以外の一同は顔を見合わせる。
阿紫花は気づいたように、
「ジョージさん、……鳴海の兄さん、いくつに見えやす?」
「? 三十路前」
「ジョージこの野郎ォォォ」と鳴海は力瘤を溜めて見せるが、ジョージは無表情だ。分かってない。
ギイはニヤリと笑い、
「ジョージ、僕は何歳ぐらいに思う?」
そう言って、阿紫花を隣に立たせた。「どっちが年上に見える?」
「……見た目は25歳くらいか?アシハナの方が年上に--カトウと同じくらいに見える」
見た目の年齢と実年齢が食い違う、しろがねたちである。一応ジョージもそれを分かっているから、慎重に答えている。
「ジョ、ジョージ……」
阿紫花は笑みを浮かべた顔で、「あんた、あたしを迎えに来る時、生年月日とか見なかったんで?パスポートの写しとか……あ、偽造してたっけ、あたし。じゃ知らねえか」
「なんだ気持ち悪い顔で……生年月日?そんな物、必要な状況ではなかっただろうが」
ギイは悩ましげに眉を寄せる演技をして、
「ジョージ、実は僕と阿紫花はほとんど同じ年齢だ。もちろん僕は80年以上は鯖を読んでいるが」
「……?」
「大体35歳だよ」
その言葉を聴いたジョージは顎に手をやり、
「ではカトウは、……40?」
「お前なァーッ!」
鳴海は怒鳴る。「俺は19だよ!」
「本当は、ギイさんとアシハナが35で、鳴海が19よ。私は秘密★」
ミンシアの言葉に、ジョージは、
「……東洋人は若く見えると思っていたが、……老けているなカトウ」
「うっせーよ!テメーは何歳だってんだ!」
「アシハナが35……頭の中身は15くらいだろうに」
「ひでえよジョージさん」と阿紫花は唇を尖らせるが、面白がっているようでもある。
「で、君はいくつなんだい?ジョージ」
ギイは物静かに、「何年に何歳でしろがねになったのか、でもいいよ」
「……実は私、ジョージの歳の方が分からないのよね~」
ミンシアがジョージを見上げ、「女優だから、結構若作りしてる人は分かっちゃうのよ。でもジョージって分かりにくいのよね。老けているっちゃ老けているんでしょうけど」
「オデコですもんね」
阿紫花が人差し指を立て、遠いジョージのオデコを押す仕草をする。
ジョージは怒るでもなく、ただ立ち上がった。
「失礼する」
ふと立ち止まり、「……46年、11歳」
「……どうも、ジョージ」
ギイは頷き、ジョージは出て行った。
「46年ってえと、あたしの義父さんより年上でやすね、ジョージ」
阿紫花はのんびりと言う。
鳴海は紙と鉛筆を取り出して、ミンシアと額をつき合わせている。
「計算してみるか」
「えっと……5年で一歳でしょ?……西暦でいいのよね?」
「ゲ……俺とそんなに違わねえじゃん。オイオイ……老けてんなあ、西洋人って。つか、知ってたか?阿紫花」
「え?」
阿紫花は首をかしげ、「知りやせんよ。でもそんなもんだとは思ってやしたねえ」
「ほう。君も一応いい大人だものな。やはり分かったのかい」
「いんえ」
ギイの言葉に、阿紫花はくすりと笑い。
「尻がね」
「え?」
「こう、ぷりぷりしてやしたから。ムチムチのプリプリ。三十前じゃ、ケツなんて重力に従うってもんでやしょ。でもこう、ドンパチの時に見たケツが、ズボン履いてやしたけど、いい尻だったんで。あ、こいつぁ若ぇな、と……」
「やだアシハナ、どこ見てるのよ」
ミンシアは心なしか胸の前を腕で覆って、「スケベ」
「だからケツですって。いやあ、嬢ちゃんみてえな娘っコもいいですがね、もちっと年取って肉乗ったケツが、あたしは好みでね」
「セクハラで訴えられるぞ、阿紫花」
ギイは冷静だ。しかし面白がっているようでもある。「いや、ジョージに訴えられるぞ」
「ギイさんはどこ見やす?ケツとか胸とか」
「んもう!スケベねあんたって!」
ミンシアはとうとう怒り出し、「女の--女と男の敵ね!」
「じゃあたし人類全部の敵って事ですかい?」
「僕は顔を見るなあ。表情が美しい人は好きだな」
「顔ねえ、顔なんざ灯り消したら見えやせんよ。鳴海の兄さんは?どこがお好みで」
鳴海は何か言いたげになるが、ミンシアの鋭く暗い視線に気づき、口を噤む。何年もこの調子だったのだろう、この姉弟弟子は。容易に想像できた。
「鳴海の兄さんのこったから、てっきり『胸』とかありきたりな答えかと思ってやしたけどねえ」
「ジョージにも聞いてきたらどうだい?」
「……プッ」
「そりゃいいや」と呟き、阿紫花は変な唄を歌いながら出て行った。
「そりゃもういいケツなんで~♪あたしのものでさ~♪」
本当にジョージの所へ行ったのかは分からないが、しばらくして「何をする貴様!」という叫び声と、ボラの回転する機械音が階上から聞こえてきて、ギイと鳴海、ミンシアは嘆息した。
「……退屈しない二人だね、まったく」
百年以上も時を経たギイですら、そう呟いた。
翌日。
「……どうしてそんなにボラの回転が見たいんだ、お前ら」
「(だってボラを出さないと見れないじゃないの!)こ、今後の戦いの参考に……」
ミンシアと鳴海がジョージに「ボラを見せて(正確には尻を)」と頼む横で。
「おはようジョージ」
目にも見えない早業で、ギイの手が通りすがりに動いた。
「!?……何か、したか今(尻に、何か当たった……?)」
「さあ?新聞でもぶつかったかな」
ロンドンタイムズを見せてギイは何食わぬ顔で立ち去った。
「……あれが年の功ってヤツよ、ミンハイ」
「ああ……そしてどうしよう、ジョージがガキに見えて来たぜ……」
ミンシアと鳴海は、ギイの背を見つめ呟いた。
ジョージ一人が首を傾げる。
「確かにいい尻だった。君はいい目をしてるな、阿紫花」
居間に入り、ギイは新聞を阿紫花に渡す。「読み終わった」
馬鹿でかいソファに寝転がっていた阿紫花はそれを受け取り、
「へえ。そりゃこちとらプロですからね。一目で分からなきゃいけやせん」
新聞を開いて絵だけ眺める。外国の広告は派手で面白い。
ギイは笑みを浮かべ、
「……ていうより、好みだったんだろ?」
「そりゃあもう」
阿紫花は新聞を閉じ。
ニヤケ顔を返した。
END
オヤジ二人でジョージ弄り。
「ギイさんのお肌綺麗よね~」
ミンシアは惚れ惚れと見つめる。「羨ましいわ」
「僕にはアナタの張りのあるバラ色の頬の方が美しく見えますよ、お嬢さん」
ギイは狙いすました様に笑みを浮かべる。
鳴海はその背後で「ケッ」と小さく舌打ちする。
「姐さん、こんなマザコンに構っちゃいけねえぜ。ヘ、人形としかイチャこけねえマザコン野郎だ」
「まあミンハイ、ギイさんは命の恩人じゃないの。それに年上なのよ?そんな失礼な口を聞いちゃいけないわ」
ミンシアは姉の顔でそう言うが、ギイは鳴海の言葉など意に介した様子もなく紅茶を啜っている。
絵になる様のギイに対し、行儀悪く椅子に後ろ向きに座る阿紫花が、
「へえ、ギイさん結構年上なんですかね。あたしゃてっきり、鳴海の兄さんと同い年くれえかと思ってやした」
「馬鹿な」
ギイは紅茶のカップをテーブルに置き肩をすくめた。
「阿紫花、褒め過ぎだよ。いくら僕が若く見えようとも、こんなネンネと一緒にしないでくれたまえ。君だってあまり若く見られたくないだろ?」
「そいつぁそうでやすねえ。確かに、こン歳で鳴海の兄さんと同じに見られちゃ、男として居心地悪ィってなもんでさ」
のほほん、と阿紫花とギイは会話をする横で。
ジョージはカップを片手に、
「……おい」
と、不機嫌そうな声を出した。
「あら、レモンティーが良かった?メイド人形に言って--」
「いやブラック(ストレートの事)でいい。そうではなくて、……誰と誰が、同じ歳だって?」
不機嫌なのではない。不可思議なのだ。
ジョージ以外の一同は顔を見合わせる。
阿紫花は気づいたように、
「ジョージさん、……鳴海の兄さん、いくつに見えやす?」
「? 三十路前」
「ジョージこの野郎ォォォ」と鳴海は力瘤を溜めて見せるが、ジョージは無表情だ。分かってない。
ギイはニヤリと笑い、
「ジョージ、僕は何歳ぐらいに思う?」
そう言って、阿紫花を隣に立たせた。「どっちが年上に見える?」
「……見た目は25歳くらいか?アシハナの方が年上に--カトウと同じくらいに見える」
見た目の年齢と実年齢が食い違う、しろがねたちである。一応ジョージもそれを分かっているから、慎重に答えている。
「ジョ、ジョージ……」
阿紫花は笑みを浮かべた顔で、「あんた、あたしを迎えに来る時、生年月日とか見なかったんで?パスポートの写しとか……あ、偽造してたっけ、あたし。じゃ知らねえか」
「なんだ気持ち悪い顔で……生年月日?そんな物、必要な状況ではなかっただろうが」
ギイは悩ましげに眉を寄せる演技をして、
「ジョージ、実は僕と阿紫花はほとんど同じ年齢だ。もちろん僕は80年以上は鯖を読んでいるが」
「……?」
「大体35歳だよ」
その言葉を聴いたジョージは顎に手をやり、
「ではカトウは、……40?」
「お前なァーッ!」
鳴海は怒鳴る。「俺は19だよ!」
「本当は、ギイさんとアシハナが35で、鳴海が19よ。私は秘密★」
ミンシアの言葉に、ジョージは、
「……東洋人は若く見えると思っていたが、……老けているなカトウ」
「うっせーよ!テメーは何歳だってんだ!」
「アシハナが35……頭の中身は15くらいだろうに」
「ひでえよジョージさん」と阿紫花は唇を尖らせるが、面白がっているようでもある。
「で、君はいくつなんだい?ジョージ」
ギイは物静かに、「何年に何歳でしろがねになったのか、でもいいよ」
「……実は私、ジョージの歳の方が分からないのよね~」
ミンシアがジョージを見上げ、「女優だから、結構若作りしてる人は分かっちゃうのよ。でもジョージって分かりにくいのよね。老けているっちゃ老けているんでしょうけど」
「オデコですもんね」
阿紫花が人差し指を立て、遠いジョージのオデコを押す仕草をする。
ジョージは怒るでもなく、ただ立ち上がった。
「失礼する」
ふと立ち止まり、「……46年、11歳」
「……どうも、ジョージ」
ギイは頷き、ジョージは出て行った。
「46年ってえと、あたしの義父さんより年上でやすね、ジョージ」
阿紫花はのんびりと言う。
鳴海は紙と鉛筆を取り出して、ミンシアと額をつき合わせている。
「計算してみるか」
「えっと……5年で一歳でしょ?……西暦でいいのよね?」
「ゲ……俺とそんなに違わねえじゃん。オイオイ……老けてんなあ、西洋人って。つか、知ってたか?阿紫花」
「え?」
阿紫花は首をかしげ、「知りやせんよ。でもそんなもんだとは思ってやしたねえ」
「ほう。君も一応いい大人だものな。やはり分かったのかい」
「いんえ」
ギイの言葉に、阿紫花はくすりと笑い。
「尻がね」
「え?」
「こう、ぷりぷりしてやしたから。ムチムチのプリプリ。三十前じゃ、ケツなんて重力に従うってもんでやしょ。でもこう、ドンパチの時に見たケツが、ズボン履いてやしたけど、いい尻だったんで。あ、こいつぁ若ぇな、と……」
「やだアシハナ、どこ見てるのよ」
ミンシアは心なしか胸の前を腕で覆って、「スケベ」
「だからケツですって。いやあ、嬢ちゃんみてえな娘っコもいいですがね、もちっと年取って肉乗ったケツが、あたしは好みでね」
「セクハラで訴えられるぞ、阿紫花」
ギイは冷静だ。しかし面白がっているようでもある。「いや、ジョージに訴えられるぞ」
「ギイさんはどこ見やす?ケツとか胸とか」
「んもう!スケベねあんたって!」
ミンシアはとうとう怒り出し、「女の--女と男の敵ね!」
「じゃあたし人類全部の敵って事ですかい?」
「僕は顔を見るなあ。表情が美しい人は好きだな」
「顔ねえ、顔なんざ灯り消したら見えやせんよ。鳴海の兄さんは?どこがお好みで」
鳴海は何か言いたげになるが、ミンシアの鋭く暗い視線に気づき、口を噤む。何年もこの調子だったのだろう、この姉弟弟子は。容易に想像できた。
「鳴海の兄さんのこったから、てっきり『胸』とかありきたりな答えかと思ってやしたけどねえ」
「ジョージにも聞いてきたらどうだい?」
「……プッ」
「そりゃいいや」と呟き、阿紫花は変な唄を歌いながら出て行った。
「そりゃもういいケツなんで~♪あたしのものでさ~♪」
本当にジョージの所へ行ったのかは分からないが、しばらくして「何をする貴様!」という叫び声と、ボラの回転する機械音が階上から聞こえてきて、ギイと鳴海、ミンシアは嘆息した。
「……退屈しない二人だね、まったく」
百年以上も時を経たギイですら、そう呟いた。
翌日。
「……どうしてそんなにボラの回転が見たいんだ、お前ら」
「(だってボラを出さないと見れないじゃないの!)こ、今後の戦いの参考に……」
ミンシアと鳴海がジョージに「ボラを見せて(正確には尻を)」と頼む横で。
「おはようジョージ」
目にも見えない早業で、ギイの手が通りすがりに動いた。
「!?……何か、したか今(尻に、何か当たった……?)」
「さあ?新聞でもぶつかったかな」
ロンドンタイムズを見せてギイは何食わぬ顔で立ち去った。
「……あれが年の功ってヤツよ、ミンハイ」
「ああ……そしてどうしよう、ジョージがガキに見えて来たぜ……」
ミンシアと鳴海は、ギイの背を見つめ呟いた。
ジョージ一人が首を傾げる。
「確かにいい尻だった。君はいい目をしてるな、阿紫花」
居間に入り、ギイは新聞を阿紫花に渡す。「読み終わった」
馬鹿でかいソファに寝転がっていた阿紫花はそれを受け取り、
「へえ。そりゃこちとらプロですからね。一目で分からなきゃいけやせん」
新聞を開いて絵だけ眺める。外国の広告は派手で面白い。
ギイは笑みを浮かべ、
「……ていうより、好みだったんだろ?」
「そりゃあもう」
阿紫花は新聞を閉じ。
ニヤケ顔を返した。
END
オヤジ二人でジョージ弄り。
平馬って分かってなさそう。田舎の5年生ってこんなもんですか。
リアルな下ネタです。ホントすいません。子持ちの女性と話してて思いついた。
平和な世界がやってきて。阿紫花たちが生き残ってるからパラレル。
ジョージと勝で阿紫花家のみんなと。
BGM :『うさ/ぎD/AS/H』『jack』 / →Pi/a-no/-j/aC←
リアルな下ネタです。ホントすいません。子持ちの女性と話してて思いついた。
平和な世界がやってきて。阿紫花たちが生き残ってるからパラレル。
ジョージと勝で阿紫花家のみんなと。
BGM :『うさ/ぎD/AS/H』『jack』 / →Pi/a-no/-j/aC←
騒がしき我が家
勝たちと一緒に、黒賀村へ里帰りしました。
「……英兄って、いつもジョージ連れてくるのね……言わなくていいわよ、見当ついてるから」
菊は高校生になり、人の機微にも通じるようになり。
「いいんじゃない?ジョージちんマジメだし。大体女に興味薄い顔じゃん、英兄はさあ」
蓮華は相変わらずだし。
「私たちはいいけど、平馬もそうなっちゃったらどうすんの……」
百合はおかしな心配をし。
阿紫花三人娘は、障子の影から長兄を見つめている。
「なんでえ。薄気味悪ィ娘っコたちでやすね」
こっち来りゃいいじゃねえか、と阿紫花は言う。
「兄貴、お茶」
「へえへ……」
縁側で、阿紫花は膝の上に平馬を乗せて寛いでいる。久しぶりなのですっかり甘える平馬に、阿紫花もつい甘くなり、お茶が欲しいと言われれば冷えた麦茶を取ってやり、背中が痒いと言えば掻いてやり……。すっかり甘えさせている。
「平馬はいいね。優しいお兄さんがいて」
勝はその隣でにこにこと笑う。「鳴海兄ちゃんとは違う感じだけど」
「はは……あの兄さんは、優しいけど甘やかさねえお人でさ。優しいんですけどね、あたしみたいに、年に何回も逢わねえからって甘やかすタイプたぁ違ぇでしょうね」
阿紫花と弟妹たちは親子と言ってもいいほど年齢が離れている。つい甘くもなるだろう。
本来なら平馬ではなく自分の子どもを膝に乗せていてもおかしくない。
「菊、蓮華、百合、……あんたらもこっち来たらどうなんでさ。なんでえ、さっきから、薄気味悪ィなあ」
阿紫花は振り向く。三姉妹は、何故かジョージを見ている。
ジョージは立ち上がりかけ、
「……なんなら、私は出てくるが」
「ああ、いいんでさ。なんでアナタが気を遣う必要がありまさ。まったくもう……これだからオボコどもは困らあ」
「オボコ」と評され、菊は真っ赤になり、蓮華はバツの悪い顔をし、百合は首を傾げる。
それぞれの反応に阿紫花はニヤリと笑みを浮かべ、
「……スイカでもあったら、切ってきてくんな」
三姉妹は我勝ちに台所へ走る。ドンガラガッシャーン、とザルを倒した音がして、「菊姉落ち着いて!」という百合の大声がした。
「どうしたの?みんな、慌てて……」
勝は不思議そうだ。
阿紫花は平馬を膝に乗せたまま微笑み、
「なに、慣れねえんでしょ、いきなりデカブツ連れて帰ってきちまったからなあ……」
「私の事か」
ジョージだ。
「アンタ以外にいやすか?--坊ちゃんだって、もうちっと大きくなって、例えばしろがね--エレオノールの嬢ちゃんみてえなのが、急にサーカス団に加わったら、緊張すんでしょ?ま、ジョージは別にあんな綺麗どころでもねえが」
「ううん……」
勝は思案する。「かもね……」
「そいつは慣れてねえからさ。あたし以外にゃオヤジさんしかこの家にいなかったもんなあ。いきなりでかい男が家に来たら、そりゃ娘っコは戸惑うわな。……」
「イシキするって事?」
平馬が生意気な声で上目遣いに問う。「こないだテレビで言ってた。色恋の始まりは、『イシキ』なんだって」
「……ちと違ェが、ま、近ェな。坊ちゃんも平馬も、もちっと大きくなったら分かりやすよ。--ねえジョージ」
「なぜ私に振る……」
ジョージは睨むように阿紫花を見る。
阿紫花はひらひらと手を振り、
「だってアンタ大人だろ」
「ああそういう意味……」
ほっと安堵したジョージに、阿紫花は、
「それにあたしのいい人じゃねえか」
「!!」
固まったジョージ。
勝も、「聞かなかった。僕何も聞かなかった」と、固まっている。
「ふ~ん……銀髪の兄ちゃん、兄貴のモンなの?」
平馬はさして不思議そうでもない。羽佐間みたいな舎弟だと思っているのかもしれない。
「ナイショでやすよ?平馬」
「うん。男と男の約束な」
兄と弟は固い契りを交わしているようではあるが。
(菊姉、ビンゴ)
(れ、蓮華の勘って当たりますのね……)
(つか、あたしは百合にも聞かせたくないわ、英兄のタワゴト)
障子の陰で、三姉妹は切ったスイカを載せたお盆を手に、固まっていた。
平馬がふと、
「……つうかさあ、英兄ィ?」
「へえ」
「映画とかドラマで、よく『愛を誓います』ってやるじゃん」
「そこに触れるな!」という三姉妹と勝の心の叫びに、平馬は気づかない。
「あれって、どういう意味?結婚式って、なんでやるの?」
「なんでって……そら、普通は結婚したら、一緒に暮らしたり、子ども作ったりって言う、人によったら墓穴堀りてな--」
「掘るな掘るな」という全員の心のツッコミは置いといて。
「こないだ俺、オヤジに似てないって、どっかのオバサンに言われてさ。母ちゃんは笑ってたけど」
「……。平馬ァ、あたしら血ィ繋がってねえんだから、そりゃあ--」
珍しくやるせなく阿紫花は言ったが、平馬は首をかしげ、
「なんで子どもって父ちゃんにも似る、ってみんな言うんだ?生むの母ちゃんだろ?おかしくない?」
「……?」
「だからあ、子ども作るのに、父ちゃんって、何すんの?」
その時の阿紫花の顔が。
パンタローネに初めて会った時よりもシビアだった事に、ジョージだけが気づいていた。
汗が一筋伝う顔で、阿紫花は問う。
「へ、平馬アンタ……来年六年生だっけ?」
「うん」
阿紫花は固まっている。六年生。普通なら分かるだろう。
現に勝は、阿紫花が探るように見ると、赤い顔で目を伏せた。絶対分かっている。
いや、勝は記憶をダウンロードさせられかけたし、祖父の記憶も読んでいるから、そういう面で現実を知っていてもおかしくない。大人びた子どもだし。
問題は平馬だ。
「おかしいよなー、俺は貰われてきたから違うけど、ヒロシのトコもさあ、ヒロシが父ちゃんに似てるんだって、みんな言うんだ」
そりゃ似るさ。羽佐間の子が阿紫花に似てたら大問題だ。
「生むの母ちゃんだろ?なんで似るんだ?一緒に住んでるからなのか?でも一緒に住んでても、俺と兄ちゃん似てないし……兄ちゃんがいけないのか?家出てくから。ずっと一緒にいたら、似てくんのか?」
「へ、平馬……アンタ、動物の交尾、見た事ねえか?」
それはいささか直球では……と、皆内心で思った。
しかし平馬は、
「見るよ。五郎んちの牛とかたまに種付けしてるじゃん」
ぶば、と噴出す音がした。ジョージだ。お茶を噴出してしまったらしい。「き、気にしないでくれ」と繕っている。
「犬だろー、猫だろー、あ、こないだスズメでも見た」
「じゃあ分かンだろ……」
「動物だけだろ?交尾って」
「……」
「だって結婚式とかって人間はするじゃん。あれすると出来るんの?愛を誓います、って言い合うと、出来ンの?動物は交尾で出来るんだろ?」
人間同士の交尾を見た事も考えた事も無いのか。人間も動物も同じだと、誰も教えてやらないのか。
「へ、平馬、いいかよ?なんで男には立派なサオ付いてて、女にゃ無ェ。学校じゃ教わらなかったのかい?」
「あ?学校?やったっけ?俺ずっと人形弄りの事ばっか考えてて」
学校の勉強くれえやりなせえ!と叱れないヤクザな兄は、青い顔で勝に助けを求める視線を送る。
勝は困惑気味の笑みを浮かべ、目をそらすばかりだ。
ジョージはダメだ。めしべとおしべという次元でものを言いそうに無い。
「なあ兄ちゃん、なんで?なんで子どもって父親に似ンの?一緒に住んでたら似ンの?ならどうして俺と兄ちゃん、似てねえの?」
弟の素直な言葉に阿紫花は。
さきほどよりもシビアな顔になって固まった。
「菊姉、……教えてやったら?平馬に」
「わ、私そんな、せ、性教育なんて無理よ!蓮華おやりなさいよ!初体験は終わったって言ってたじゃない!」
「そりゃ、あたし大学生と付き合ってたから、それなりに--でもヤだよ!」
「ええ、そうだったの!?蓮華姉、実はそうだったの?」
三姉妹は言い合っている。
勝は気づき(もっと小さな声でやってよね--)と苦笑いをするばかりだ。
「ねえ兄ちゃん、教えてくれよ~!百合姉たちも、母ちゃんたちも教えてくれねえんだよ」
「……(どうしやしょ)あんなぁ、平馬……アンタ、チンチン固くなったりしねえのかい」
「する。なるなる。勝もなるかあ?」
平馬に問われて勝は真っ赤な顔だ。
「な……な、なる、よ」
友情に答えるべき羞恥に耐える姿は涙ぐましくさえある。
阿紫花とジョージ(と隠れている三姉妹)は「頑張った!」と言ってやりたくなっている。
「なったら、意味あんの?触ると気持ちいいって、前に五郎が言ってたけど、そうなのか?」
「後でその五郎ってガキはぶっ殺すとして--ああもう、面倒臭ェ。平馬、女の身体見ると、勃たねえか?男でも兄ちゃんは何も言わねえけど」
「そこは譲歩するな」という全員の心のツッコミ。
阿紫花は続けて、
「いいですかい?女にゃ、赤ん坊生むためのアナがあるんでさ。そこに男のアレ入れると、子どもが出来るって寸法さ」
「? 知ってるよ」
「? 何が分からねえんだよ、テメエは」
「だからあ、それやって、どうなるのさ。なんで似るんだよ、父親に」
「?」
あ、と。
勝は気づく。横から声を掛けた。
「平馬……もしかして、出したこと無い?」
「何を?」
「ち、チンチンの先から……その、白いの」
「牛乳でも出るのか?」
あああ--と、平馬以外の全員が心の中で嘆息した。
平馬は、自分ではまだ経験した事がないから、分からないのだ。
説明しづらい。同じ年齢の子ども同士で教えあう内容ではない。
全員が困っていた。
その時不意に。
「--愛の力だ」
ジョージだ。咳払いをする。
「愛?」
平馬は首を傾げる。
「子どもが親に似るのも、愛だ。愛が無ければ、子どもは出来ない」
(うわあ、言い切ったよこの外人さんは)と、黒賀村の生粋の日本娘は青くなる。外国人が歯の浮くような科白を吐くのは、映画の中だけだと思っていた。
「愛--って、じゃあ、似てない親子は愛が無ェの?」
「他の人には分からないだけで、本当は似ているんだろう。君たちも、家族も、みんな似ていると思う。私は」
「ふーん……」
平馬は何か頷く所があったのか、大人しくなっている。
「ジョージ。……グッジョブ」
阿紫花が親指を立てる。ジョージは無視した。
「ねえねえ、兄ちゃん」
「ん?なんでさ、平馬」
「じゃあ、兄ちゃんとジョージって、なんで似てんの?兄弟?」
「は?似てやせんよ。冗談じゃねえ。こんなオデコの堅物」
ジョージも負けていない。
「そうだ。こんな金金うるさいだらしないだけの男、この私に似るはずが無い」
「言いやしたね、ジョージ。ケッ、そのだらしない男を毎回連れ出しに、世界の裏側まで来やがるのはどこのどちら様でさあ」
「ああ、本当にだらしないよな。久しぶりに会うのに髭は剃らない髪は整えない、小汚い浮浪者みたいな格好で空港まで来る度胸のいいバカが。我ながら、どうしてこんな……」
思い出して怒りがぶり返すジョージに、阿紫花は言い返す。
「小汚ェだあ?ジョージ、ワイルドってヤツが分からねえんじゃ、男じゃねえよ。ああ、ピアノ馬鹿のインテリお坊ちゃんにゃあ、分からねえか」
「ピアノ馬鹿?何を言うか。いいか、ピアノは……」
「坊ちゃん、平馬、このトーヘンボクはね、何週間ぶりかで顔合わせたって、手元にピアノがあればふらふら、そっちに直行しやがるピアノオタクなんですぜ。変態じゃねえか、一ヶ月ぶりに逢うのにピアノ聴かされるんですぜ?あたしの鍵盤(以下、放送事故的自粛)やがれってんだ」
「何!?ピアノとお前は違うだろ!」
「違ェから怒ってんでしょーが!」
ドラムとビーストの如く睨み合う二人に、平馬と勝は。
「……付き合ってんの?」
「遅いよ……平馬……」
子どもらしくなく項垂れた。
「……お、お待ちどう様です……」
どうぞ召し上がれ、と菊や百合はスイカを載せたお盆を縁側に置いてくれるのだが。
動きがぎこちない。
無理も無い。ずっと聞いていたのだ。
勝は今夜の阿紫花家の夕食の会話が気になって仕方が無い。
平馬は何気ない口調で、
「菊姉、知ってた?ジョージは英兄の……」
「平馬ちんスイカ美味しいよ!」
蓮華は平馬の口にスイカを押し込み、「細かい事は気にしない!」
目を白黒させる平馬を抱いたまま、阿紫花はスイカを受け取る。
「へえ、どうもありがとさん。ああ、うめえや」
普通に庭に種を飛ばしている。
先ほどまでの怒りはもう忘れたらしい。
「百合もやれや。あんた、結構遠くまで飛ばせたじゃねえか」
「もうしないわよ!」
「英兄はそんなんばっかだよね~。雪降ったら平馬と一緒にオシッコ飛ばしあって菊姉に怒鳴られたりさ」
「食べてるんだから!下品な事言わないでよ!」
「あ~あ~、ちっけえ頃はみんな可愛かったのによォ。今じゃでけえばっかで小うるせえばっかじゃねえか」
「英兄ィ!!」
「へえへえ!いちいち声揃えて高ぇ声で怒鳴んなって……あたし肩身が狭ぇぜ、平馬……あら?平馬?咽喉にスイカ詰まらせ--」
「やだっ!バケツ持ってきて!」
「運んだ方早いよ!トイレ!吐かせないと!」
「平馬ちんゴメン!ああ、どうしよ!」
「ああもう、いいから任せな!ったくよお、お前ら退屈しねえよまったくよ」
どたどたと、阿紫花や妹たちの足音が遠ざかっていく。
しばらくして「殺す気か!!」という平馬の声がした。
「……(僕どうしてこんな面白い状況でここにいるんだろう……)」
「……(勝は阿紫花家で居候していたのだっけ。こんな騒がしい家でよく……)」
勝とジョージはひたすら無言で咀嚼していた。
蜩の声が鳴き、勝は呟いた。
「……スイカ、美味しいね、ジョージさん。……」
「……ああ。……」
二人はただスイカを齧っていた。
END
勝たちと一緒に、黒賀村へ里帰りしました。
「……英兄って、いつもジョージ連れてくるのね……言わなくていいわよ、見当ついてるから」
菊は高校生になり、人の機微にも通じるようになり。
「いいんじゃない?ジョージちんマジメだし。大体女に興味薄い顔じゃん、英兄はさあ」
蓮華は相変わらずだし。
「私たちはいいけど、平馬もそうなっちゃったらどうすんの……」
百合はおかしな心配をし。
阿紫花三人娘は、障子の影から長兄を見つめている。
「なんでえ。薄気味悪ィ娘っコたちでやすね」
こっち来りゃいいじゃねえか、と阿紫花は言う。
「兄貴、お茶」
「へえへ……」
縁側で、阿紫花は膝の上に平馬を乗せて寛いでいる。久しぶりなのですっかり甘える平馬に、阿紫花もつい甘くなり、お茶が欲しいと言われれば冷えた麦茶を取ってやり、背中が痒いと言えば掻いてやり……。すっかり甘えさせている。
「平馬はいいね。優しいお兄さんがいて」
勝はその隣でにこにこと笑う。「鳴海兄ちゃんとは違う感じだけど」
「はは……あの兄さんは、優しいけど甘やかさねえお人でさ。優しいんですけどね、あたしみたいに、年に何回も逢わねえからって甘やかすタイプたぁ違ぇでしょうね」
阿紫花と弟妹たちは親子と言ってもいいほど年齢が離れている。つい甘くもなるだろう。
本来なら平馬ではなく自分の子どもを膝に乗せていてもおかしくない。
「菊、蓮華、百合、……あんたらもこっち来たらどうなんでさ。なんでえ、さっきから、薄気味悪ィなあ」
阿紫花は振り向く。三姉妹は、何故かジョージを見ている。
ジョージは立ち上がりかけ、
「……なんなら、私は出てくるが」
「ああ、いいんでさ。なんでアナタが気を遣う必要がありまさ。まったくもう……これだからオボコどもは困らあ」
「オボコ」と評され、菊は真っ赤になり、蓮華はバツの悪い顔をし、百合は首を傾げる。
それぞれの反応に阿紫花はニヤリと笑みを浮かべ、
「……スイカでもあったら、切ってきてくんな」
三姉妹は我勝ちに台所へ走る。ドンガラガッシャーン、とザルを倒した音がして、「菊姉落ち着いて!」という百合の大声がした。
「どうしたの?みんな、慌てて……」
勝は不思議そうだ。
阿紫花は平馬を膝に乗せたまま微笑み、
「なに、慣れねえんでしょ、いきなりデカブツ連れて帰ってきちまったからなあ……」
「私の事か」
ジョージだ。
「アンタ以外にいやすか?--坊ちゃんだって、もうちっと大きくなって、例えばしろがね--エレオノールの嬢ちゃんみてえなのが、急にサーカス団に加わったら、緊張すんでしょ?ま、ジョージは別にあんな綺麗どころでもねえが」
「ううん……」
勝は思案する。「かもね……」
「そいつは慣れてねえからさ。あたし以外にゃオヤジさんしかこの家にいなかったもんなあ。いきなりでかい男が家に来たら、そりゃ娘っコは戸惑うわな。……」
「イシキするって事?」
平馬が生意気な声で上目遣いに問う。「こないだテレビで言ってた。色恋の始まりは、『イシキ』なんだって」
「……ちと違ェが、ま、近ェな。坊ちゃんも平馬も、もちっと大きくなったら分かりやすよ。--ねえジョージ」
「なぜ私に振る……」
ジョージは睨むように阿紫花を見る。
阿紫花はひらひらと手を振り、
「だってアンタ大人だろ」
「ああそういう意味……」
ほっと安堵したジョージに、阿紫花は、
「それにあたしのいい人じゃねえか」
「!!」
固まったジョージ。
勝も、「聞かなかった。僕何も聞かなかった」と、固まっている。
「ふ~ん……銀髪の兄ちゃん、兄貴のモンなの?」
平馬はさして不思議そうでもない。羽佐間みたいな舎弟だと思っているのかもしれない。
「ナイショでやすよ?平馬」
「うん。男と男の約束な」
兄と弟は固い契りを交わしているようではあるが。
(菊姉、ビンゴ)
(れ、蓮華の勘って当たりますのね……)
(つか、あたしは百合にも聞かせたくないわ、英兄のタワゴト)
障子の陰で、三姉妹は切ったスイカを載せたお盆を手に、固まっていた。
平馬がふと、
「……つうかさあ、英兄ィ?」
「へえ」
「映画とかドラマで、よく『愛を誓います』ってやるじゃん」
「そこに触れるな!」という三姉妹と勝の心の叫びに、平馬は気づかない。
「あれって、どういう意味?結婚式って、なんでやるの?」
「なんでって……そら、普通は結婚したら、一緒に暮らしたり、子ども作ったりって言う、人によったら墓穴堀りてな--」
「掘るな掘るな」という全員の心のツッコミは置いといて。
「こないだ俺、オヤジに似てないって、どっかのオバサンに言われてさ。母ちゃんは笑ってたけど」
「……。平馬ァ、あたしら血ィ繋がってねえんだから、そりゃあ--」
珍しくやるせなく阿紫花は言ったが、平馬は首をかしげ、
「なんで子どもって父ちゃんにも似る、ってみんな言うんだ?生むの母ちゃんだろ?おかしくない?」
「……?」
「だからあ、子ども作るのに、父ちゃんって、何すんの?」
その時の阿紫花の顔が。
パンタローネに初めて会った時よりもシビアだった事に、ジョージだけが気づいていた。
汗が一筋伝う顔で、阿紫花は問う。
「へ、平馬アンタ……来年六年生だっけ?」
「うん」
阿紫花は固まっている。六年生。普通なら分かるだろう。
現に勝は、阿紫花が探るように見ると、赤い顔で目を伏せた。絶対分かっている。
いや、勝は記憶をダウンロードさせられかけたし、祖父の記憶も読んでいるから、そういう面で現実を知っていてもおかしくない。大人びた子どもだし。
問題は平馬だ。
「おかしいよなー、俺は貰われてきたから違うけど、ヒロシのトコもさあ、ヒロシが父ちゃんに似てるんだって、みんな言うんだ」
そりゃ似るさ。羽佐間の子が阿紫花に似てたら大問題だ。
「生むの母ちゃんだろ?なんで似るんだ?一緒に住んでるからなのか?でも一緒に住んでても、俺と兄ちゃん似てないし……兄ちゃんがいけないのか?家出てくから。ずっと一緒にいたら、似てくんのか?」
「へ、平馬……アンタ、動物の交尾、見た事ねえか?」
それはいささか直球では……と、皆内心で思った。
しかし平馬は、
「見るよ。五郎んちの牛とかたまに種付けしてるじゃん」
ぶば、と噴出す音がした。ジョージだ。お茶を噴出してしまったらしい。「き、気にしないでくれ」と繕っている。
「犬だろー、猫だろー、あ、こないだスズメでも見た」
「じゃあ分かンだろ……」
「動物だけだろ?交尾って」
「……」
「だって結婚式とかって人間はするじゃん。あれすると出来るんの?愛を誓います、って言い合うと、出来ンの?動物は交尾で出来るんだろ?」
人間同士の交尾を見た事も考えた事も無いのか。人間も動物も同じだと、誰も教えてやらないのか。
「へ、平馬、いいかよ?なんで男には立派なサオ付いてて、女にゃ無ェ。学校じゃ教わらなかったのかい?」
「あ?学校?やったっけ?俺ずっと人形弄りの事ばっか考えてて」
学校の勉強くれえやりなせえ!と叱れないヤクザな兄は、青い顔で勝に助けを求める視線を送る。
勝は困惑気味の笑みを浮かべ、目をそらすばかりだ。
ジョージはダメだ。めしべとおしべという次元でものを言いそうに無い。
「なあ兄ちゃん、なんで?なんで子どもって父親に似ンの?一緒に住んでたら似ンの?ならどうして俺と兄ちゃん、似てねえの?」
弟の素直な言葉に阿紫花は。
さきほどよりもシビアな顔になって固まった。
「菊姉、……教えてやったら?平馬に」
「わ、私そんな、せ、性教育なんて無理よ!蓮華おやりなさいよ!初体験は終わったって言ってたじゃない!」
「そりゃ、あたし大学生と付き合ってたから、それなりに--でもヤだよ!」
「ええ、そうだったの!?蓮華姉、実はそうだったの?」
三姉妹は言い合っている。
勝は気づき(もっと小さな声でやってよね--)と苦笑いをするばかりだ。
「ねえ兄ちゃん、教えてくれよ~!百合姉たちも、母ちゃんたちも教えてくれねえんだよ」
「……(どうしやしょ)あんなぁ、平馬……アンタ、チンチン固くなったりしねえのかい」
「する。なるなる。勝もなるかあ?」
平馬に問われて勝は真っ赤な顔だ。
「な……な、なる、よ」
友情に答えるべき羞恥に耐える姿は涙ぐましくさえある。
阿紫花とジョージ(と隠れている三姉妹)は「頑張った!」と言ってやりたくなっている。
「なったら、意味あんの?触ると気持ちいいって、前に五郎が言ってたけど、そうなのか?」
「後でその五郎ってガキはぶっ殺すとして--ああもう、面倒臭ェ。平馬、女の身体見ると、勃たねえか?男でも兄ちゃんは何も言わねえけど」
「そこは譲歩するな」という全員の心のツッコミ。
阿紫花は続けて、
「いいですかい?女にゃ、赤ん坊生むためのアナがあるんでさ。そこに男のアレ入れると、子どもが出来るって寸法さ」
「? 知ってるよ」
「? 何が分からねえんだよ、テメエは」
「だからあ、それやって、どうなるのさ。なんで似るんだよ、父親に」
「?」
あ、と。
勝は気づく。横から声を掛けた。
「平馬……もしかして、出したこと無い?」
「何を?」
「ち、チンチンの先から……その、白いの」
「牛乳でも出るのか?」
あああ--と、平馬以外の全員が心の中で嘆息した。
平馬は、自分ではまだ経験した事がないから、分からないのだ。
説明しづらい。同じ年齢の子ども同士で教えあう内容ではない。
全員が困っていた。
その時不意に。
「--愛の力だ」
ジョージだ。咳払いをする。
「愛?」
平馬は首を傾げる。
「子どもが親に似るのも、愛だ。愛が無ければ、子どもは出来ない」
(うわあ、言い切ったよこの外人さんは)と、黒賀村の生粋の日本娘は青くなる。外国人が歯の浮くような科白を吐くのは、映画の中だけだと思っていた。
「愛--って、じゃあ、似てない親子は愛が無ェの?」
「他の人には分からないだけで、本当は似ているんだろう。君たちも、家族も、みんな似ていると思う。私は」
「ふーん……」
平馬は何か頷く所があったのか、大人しくなっている。
「ジョージ。……グッジョブ」
阿紫花が親指を立てる。ジョージは無視した。
「ねえねえ、兄ちゃん」
「ん?なんでさ、平馬」
「じゃあ、兄ちゃんとジョージって、なんで似てんの?兄弟?」
「は?似てやせんよ。冗談じゃねえ。こんなオデコの堅物」
ジョージも負けていない。
「そうだ。こんな金金うるさいだらしないだけの男、この私に似るはずが無い」
「言いやしたね、ジョージ。ケッ、そのだらしない男を毎回連れ出しに、世界の裏側まで来やがるのはどこのどちら様でさあ」
「ああ、本当にだらしないよな。久しぶりに会うのに髭は剃らない髪は整えない、小汚い浮浪者みたいな格好で空港まで来る度胸のいいバカが。我ながら、どうしてこんな……」
思い出して怒りがぶり返すジョージに、阿紫花は言い返す。
「小汚ェだあ?ジョージ、ワイルドってヤツが分からねえんじゃ、男じゃねえよ。ああ、ピアノ馬鹿のインテリお坊ちゃんにゃあ、分からねえか」
「ピアノ馬鹿?何を言うか。いいか、ピアノは……」
「坊ちゃん、平馬、このトーヘンボクはね、何週間ぶりかで顔合わせたって、手元にピアノがあればふらふら、そっちに直行しやがるピアノオタクなんですぜ。変態じゃねえか、一ヶ月ぶりに逢うのにピアノ聴かされるんですぜ?あたしの鍵盤(以下、放送事故的自粛)やがれってんだ」
「何!?ピアノとお前は違うだろ!」
「違ェから怒ってんでしょーが!」
ドラムとビーストの如く睨み合う二人に、平馬と勝は。
「……付き合ってんの?」
「遅いよ……平馬……」
子どもらしくなく項垂れた。
「……お、お待ちどう様です……」
どうぞ召し上がれ、と菊や百合はスイカを載せたお盆を縁側に置いてくれるのだが。
動きがぎこちない。
無理も無い。ずっと聞いていたのだ。
勝は今夜の阿紫花家の夕食の会話が気になって仕方が無い。
平馬は何気ない口調で、
「菊姉、知ってた?ジョージは英兄の……」
「平馬ちんスイカ美味しいよ!」
蓮華は平馬の口にスイカを押し込み、「細かい事は気にしない!」
目を白黒させる平馬を抱いたまま、阿紫花はスイカを受け取る。
「へえ、どうもありがとさん。ああ、うめえや」
普通に庭に種を飛ばしている。
先ほどまでの怒りはもう忘れたらしい。
「百合もやれや。あんた、結構遠くまで飛ばせたじゃねえか」
「もうしないわよ!」
「英兄はそんなんばっかだよね~。雪降ったら平馬と一緒にオシッコ飛ばしあって菊姉に怒鳴られたりさ」
「食べてるんだから!下品な事言わないでよ!」
「あ~あ~、ちっけえ頃はみんな可愛かったのによォ。今じゃでけえばっかで小うるせえばっかじゃねえか」
「英兄ィ!!」
「へえへえ!いちいち声揃えて高ぇ声で怒鳴んなって……あたし肩身が狭ぇぜ、平馬……あら?平馬?咽喉にスイカ詰まらせ--」
「やだっ!バケツ持ってきて!」
「運んだ方早いよ!トイレ!吐かせないと!」
「平馬ちんゴメン!ああ、どうしよ!」
「ああもう、いいから任せな!ったくよお、お前ら退屈しねえよまったくよ」
どたどたと、阿紫花や妹たちの足音が遠ざかっていく。
しばらくして「殺す気か!!」という平馬の声がした。
「……(僕どうしてこんな面白い状況でここにいるんだろう……)」
「……(勝は阿紫花家で居候していたのだっけ。こんな騒がしい家でよく……)」
勝とジョージはひたすら無言で咀嚼していた。
蜩の声が鳴き、勝は呟いた。
「……スイカ、美味しいね、ジョージさん。……」
「……ああ。……」
二人はただスイカを齧っていた。
END
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※「か〇くりサー〇ス」女性向け非公式ファンサイトです。CPは「ジョ阿紫」中心。また、予定では期間限定です。期間は2010年内くらいを予定してます。
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プロフィール
名前:デラ
性別:女性(未婚)
年齢:四捨五入して三十路
備考:体力と免疫力が無い
性別:女性(未婚)
年齢:四捨五入して三十路
備考:体力と免疫力が無い
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