性的描写・過去捏造につき閲覧注意。私のエロ小説はクドくてグロいです。いや、私自身全然甘甘ちゃんなので作品も全然ですけれど。
ジョアシですが衝月×阿紫花チック。
BGM : 某ホラゲのプレイ動画。何故だろう、外国の方の作ったゲームは怖くない。
やっと終わりました。この夏休み設定で、まだ書きたいモノがあるんだけど夏が終わりました。時の流れに負け続けてます。女ですから。苦笑
夏休み設定で書きたいネタ。
・フウの作った人形で肝試し。それぞれの反応ってあるよね。お盆だし、魂があった、と思われる人形たち(フランシーヌとか)は出てきてもいいじゃない!という話。
・阿紫花とジョージの朝の運動(夜のは別にやってる←オイ)。ミンシアとしろがねの、鳴海への愛合戦も。
・帰省初日に百合がインフルエンザ。看病ジョージ。そして三姉妹とうとう携帯電話を長兄に買わせる。現金かな、それともブラックカードかな……。フウさんの。(オイ
他のキャラの話
・ギイとフランシーヌ人形の、91年ぶりの邂逅。ギイってフランシーヌ人形の事、少し好きだったよね、と思って。
・しろがねの過去と未来の一幕。戦いのアート、って、誰が見てアートなのか、って話。
・最終回後、生き残りパラレル。ミンシアと、パパラッチ対策のミンシアの身代わり人形の話。人形だって人を愛してもいいじゃない、と思う……。
書けると良いな!笑
ジョアシですが衝月×阿紫花チック。
BGM : 某ホラゲのプレイ動画。何故だろう、外国の方の作ったゲームは怖くない。
やっと終わりました。この夏休み設定で、まだ書きたいモノがあるんだけど夏が終わりました。時の流れに負け続けてます。女ですから。苦笑
夏休み設定で書きたいネタ。
・フウの作った人形で肝試し。それぞれの反応ってあるよね。お盆だし、魂があった、と思われる人形たち(フランシーヌとか)は出てきてもいいじゃない!という話。
・阿紫花とジョージの朝の運動(夜のは別にやってる←オイ)。ミンシアとしろがねの、鳴海への愛合戦も。
・帰省初日に百合がインフルエンザ。看病ジョージ。そして三姉妹とうとう携帯電話を長兄に買わせる。現金かな、それともブラックカードかな……。フウさんの。(オイ
他のキャラの話
・ギイとフランシーヌ人形の、91年ぶりの邂逅。ギイってフランシーヌ人形の事、少し好きだったよね、と思って。
・しろがねの過去と未来の一幕。戦いのアート、って、誰が見てアートなのか、って話。
・最終回後、生き残りパラレル。ミンシアと、パパラッチ対策のミンシアの身代わり人形の話。人形だって人を愛してもいいじゃない、と思う……。
書けると良いな!笑
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今は昔
広場へ続く木漏れ日の中、遠くから誰かが歩いてくる。
登山用リュック一つの、まるでピクニックにでも出かけるような軽装だ。
高綱の練習用の低い綱を、鉄棒とシーソーの間に張って、上でバランスを取っていた涼子は気づき、手を挙げた。
「あ、中国のお姉ちゃんだ」
「ハ~イ!元気?みんな!」
ミンシアだ。遠くから駆けて来る。「来ちゃった!」
「お~、よく来たな」
法安は懐かしげに、「元気だったか?」
「元気よォ!みんなも元気そうね」
仲町サーカスの面々を見回し、ミンシアは笑う。
「姐さん!」
鳴海が太い腕を掲げると、ミンシアは細腕をそこに交差させた。
「姐さん、久しぶり」
「おう、元気だった?ミンハイ。しろがねと仲良くやってる?」
鳴海の隣に来ていたエレオノールの頬が一気に赤く染まり、一同は大笑いだ。
「てか、よく来れたわね。ハリウッド女優って、いつでもパパラッチに狙われてるんでしょ?」
「そうだよ。この村にまでパパラッチ来ちゃうんじゃない?」
三牛親子の言葉に、ノリとヒロは「余計な事言うな!」と威嚇する。
鳴海も眉を潜ませ、
「映画、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ!今は夏休み。それに、西海岸のアパート(外国の『アパート』は日本のマンションに相当する)には、フウさんに貰った自動人形置いてきたから」
ミンシアは笑って、
「趣味はヨガとピラティス、ってインタビューに答えておいて良かったわ。休日ずっと引き籠っていてもおかしくないものね。私の代わりに、結構規則正しい生活しててくれてるはずよ」
「ふうん。なら大丈夫かな」
「もし何かあっても、そこはハリウッドよ、話題になればちょっとやそっとは何でもないわ!--そういえば、ギイさんやフウさんは?さっきジョージに会ったんだけど、一人だったわ。阿紫花探してるんですって」
「あ……」と、一同は苦笑いを浮かべる。
ジョージは仔細を説明していかなかったらしい。エレオノールが説明すると、ミンシアは呆れて目を丸くした。
「まあ、阿紫花!馬鹿ね~……ホント、どうしようもないわ。でも、面白い写真撮れたからいいか。ジョージの顔に落書きなんてね」
ミンシアは日本製の一眼レフを持ち上げ、
「エリ王女にね、送ってあげるの」
「エリ……」
鳴海の呟きに、ミンシアは微笑み、
「エリ王女は自由に見に来れないでしょう?王女様には休日なんてないもの。王女様は自動人形に勤まる仕事じゃないから、私みたいに出て来れないじゃない?--だから写真をね。黒賀村の事、私が話したらとても行きたがってたから」
「そっか……」
「うふふ、いつもはパパラッチされる私が今度はパパラッチする側よ。いいサーカス見せてね。ミンハイ、しろがね」
フラッシュが輝き。
驚いた顔の鳴海とエレオノールの一瞬を、ミンシアは撮影した。
「うふふ、いい顔いい顔」
「アナタもいい顔よ、お嬢ちゃん」
スゥ、と、ミンシアの背後に陰が立つ。
ミンシアの頬に頬を寄せ、ヴィルマが囁く。
「いい顔になったじゃない」
「そ、そう?てか近いわ。ヴィルマ」
相変わらずスタイルのいいアメリカ美女に、ミンシアは畏怖と対抗心を覚える。ほとんど胸が見えそうなタンクトップ一枚で、乳首が浮いても平然としているのは、さすがアメリカンガール、としか言いようが無い。サーカスの面々は見慣れているが、これが健全な男子なら、真っ赤になって前かがみだ。
髪を黒く染めるのはやめたらしく、赤みがかった茶髪になっている。
ふと、ノリがヴィルマに、
「朝のナイフ投げ終わったのか?長かったじゃん。朝飯食ってないだろ、もうないぜ」
ヴィルマは肩をすくめ、
「いいよ、食欲ない。ちょいと考え事しててね……。観客もいないのに余計に投げちまったよ。でもあたしからスキニーボーイかっさらった銀髪のロボコップに逢って、やる気無くした。あたしのオッパイ見ても顔色変えないんでやんの……」
ジョージの事だろう。
鳴海はうんざりと、
「ジョージ、どんだけ走ってんだよ……」
「しろがねならば一日でも走れる、鳴海」
エレオノールは胸を叩き、「私も出来る」
「んん、それはしなくていいぞ」
ボケとツッコミが最近はっきりしてきた鳴海とエレオノールをよそに、ヴィルマはナイフを指でなぞりミンシアを見る。
「可愛いお嬢ちゃん、アタシのナイフの的にならない?……」
まんざら嫌いでもないタイプなのだろう。ヴィルマは以前エレオノールにしたのと同じ目で、
「可愛い顔してるじゃない。あっちの女優なら、こういうの動じないんじゃない?」
ハリウッドの同性愛スキャンダルは多い。
「スキニーボーイに振られてこっち、男も女もその気になれなかったんだけど……どう?ナイフ投げ以外のアタシのテク、教えてあげるよ……」
リーゼは以前のように「好きだケド。いけないワ。あわわ」と目をキラキラさせている。
ミンシアは笑い、
「そうね、考えさせて」
「……」
「アナタを心から好きになれたら、ナイフの的でも何でもなってあげる。恋人として、好きになれたらね」
「『愛は火が点いた友情』って言葉、信じる?……」
「そうねえ。『友情は愛に変われるが、愛は友情にならない』ってのは嘘だけど。友情は愛になるかもね」
はぐらかすようにミンシアは笑う。
「一筋縄じゃいかないお嬢ちゃんね」
ヴィルマは笑い、
「練習してくる。夜までには戻るから」
そう言って、森へ続く道へ消えた。
「--熱心ね。でも少し、……張り詰めてるわ」
--ーミンシアは気遣うように呟く。
鳴海は肩をすくめ、周囲が聞いていない事を確認し、
「……体を新しくしたはいいが、今度は正確すぎるんだと。投げるナイフが全部思った場所にしか行かないんだとさ。少しも外れないし、狂わない。……つまんねえんだろ」
「……」
「そりゃ、的やってる人間は安心するけどな。投げてる本人は、居た堪れねえよ……」
※
「居た堪れなかった」
阿紫花は天井の染みを見つめ、呟いた。
「親父とお袋は悪くねえ。行く先の無ェあたしを貰ってくれた。守ろうとしてくれた。……あたしは別に長や人形使いどもも、嫌いじゃなかったし、恨んでもねェ。そんなの、なんつうか、次元の違う話だ。……」
日が高くなりつつある。
窓から差し込む陰の形の変化に、阿紫花は口角を歪める。
「ただあたし、……ちょいと苦手だったんでさ。……でけえ図体した人形遣いどもとか、何するってんでもねえのにな」
脳裏に浮かんだのは、二十年間の言葉だ。
『何しても構やしやせん。何でもしやす』
中学生の子どもが、あの状況で言える言葉か?
外から五郎の「川行って来る!」というまだまだ無邪気な声がした。
阿紫花はあの時、五郎とそう変わらない年齢だった。
子ども顔をした、--商売女のような。
いつ、どこでそんなものを知った?この村ではあるまい。そんな女もいない事はなかっただろうが、どんな性質の悪そうな女でも、子どもには大人らしい対応をしたはずだ。黒賀村の女どもはそういう、心根の丈夫さを持っている。
まさか、この村の男に強要されて、というのはあるまい。そんな趣味の大人がもしいれば、--秘密裏に「仕置き」するだろう。それが長の息子でも、だ。秘密は秘密を守らない。村の秘密を守る人間には、そんな忌まわしい秘密など許されない。
じゃあどこで?考えられるのは、黒賀村に来る前の、もっとずっとガキだった頃しか--。
--衝月はぞっとした。ひくりと横隔膜が震えた。
息子の--五郎の顔が脳裏に浮かんだ。
阿紫花は鼻で哂う。
「今じゃ何クソって話だ。ここに来るまで知らなかったぜ。テメェが大人になっちまったら、ガキの頃のテメェが馬鹿に見えらあ。大人だってまともなのもいらあね。……衝月。そんな、バケモノ見るような顔、すんな」
「違う……阿紫花ァ、俺は」
「違わねえ。何も、アンタは間違ってねえよ。……」
黒手袋が、タバコの箱をポケットから取り出した、
少し手が震えている。そう見えたのは衝月の気のせいか。
「昔から、な……アンタは正しい。今もそうだ。……」
「英……」
「衝月」
今はもう、昔の話。--阿紫花はそう言った。
「そう思う事にしようぜ。忘れちまって、よ……」
阿紫花はタバコを咥えた。
火は無い。
もうこの小屋には、どんなに小さな火も灯ることは無いのだ。
衝月は首を振り、
「お前ェは忘れてェだろ。でも俺は、忘れられねェ。--なんでお前は、人形を持って行った。俺の人形とお前ェの人形を交換して」
「……」
阿紫花はクス、と微笑んだ。
「分かンねえかね。だろうな」
人を小馬鹿にしたような笑みだ。
衝月はすごんだ。効果は無いと分かっている。
「答えろよ。……」
「叩き壊したかったのさ」
阿紫花は呟いた。
「アンタがイイって言うから、あたしはあたしに似た人形を作っちまった。でもあたし、あんな人形、本当は大嫌ェだった。金もったいねえからって言い訳して、面倒臭ェ一心で白一色にしてやったら、アンタ喜んで、自分の人形は黒にしやがった。どうせ負ける人形、負けなきゃいけない人形だ、あたしゃ精々派手にブチ壊してやろうとしか思ってなかったんでェ」
「負ける?お前ェが?」
「あたしが一番になって誰が喜ぶよ?それにあたしが自分で白御前を操って一回戦で潰せば、……決勝であんたとやらなくて済む。気に入らない人形、あんたのために一回戦で潰してやろうとしか思ってなかったでェ」
阿紫花は夢を見るような目で、
「でも前の夜に、目が覚めちまった。人形相撲で負けても勝っても、あたしは負けだ。一番になっても、負けは変わらない。……」
「どういう意味だ?」
阿紫花は答えず、
「……だったら壊してやろうと思った。決勝までお互い勝ち進みゃ、あたしはあたしの手で、あたしに似た人形をブッ壊す。あんたに似た黒い人形で、あたしを、……」
壊れたかったンでさ。--夢を見るような瞳のまま、阿紫花は呟いた。
「あんた、あたしを壊してくれねェんだもの……」
ぞくりとするような笑みだった。
二十年経っても変わらない、いや、なおいっそう凄絶に。
「だからあたし、あんたの人形であたしの人形、ブッ壊したんでさ」
衝月を見つめ、暗く紅い色の滲む笑みを浮かべた。
※
記憶の中で、歓声が聞こえる。
人形のための土俵の外から。
土俵が結界だとか、義父親はそう言った。
外界と隔てられた場所。
神聖なその場所で、必ずどちらかがぶちのめされる。
--最初は互角に見えた。
阿紫花の操る、衝月の拵えた「黒武者」。
衝月の操る、阿紫花の拵えた「白御前」。
大きさで言えば黒武者がでかいが、白御前は素早い。
繰り手は互角と、皆が思い込んでいた。
「お前ェ、ずっと力を隠してやがった」
武者の腕が、足が。
白御前よりも素早く動いた。
作った衝月ですら思いもせぬ動きだった。
重量のある、目にも留まらぬ刀の動き。
あっという間に白御前はひび割れ、崩れていく。
「みんな、あんたを応援してやしたっけ……」
阿紫花の腕が立ちすぎた。まるで理不尽な暴行を、白い人形へ加えているようにみえただろう。衝月への応援は、阿紫花への様々な反発の集まりだった。
阿紫花の人形繰りの腕への妬み、打ち解けぬ態度への大人たちの不信、阿紫花の態度に違和感を感じていた級友たちの不満、各個はささやかなはずの悪意が、人形相撲の場で一つの大きなうねりとなっていた。
「丸盆(リング)に立つ人形があたしみたいな木偶じゃあ、観客はそりゃ金返せってなもんでさ……」
罵倒と歓声が、肌に刺さるように身に沁みた。
「……あたしの人形を、あたしは羨ましいって、思っちまった」
壊れることが出来て。それで村のみんなに応援されて。
「あんたに、操ってもらってさあ……」
「じゃあなんで手を抜いた」
あと一撃で阿紫花の勝利、というその瞬間。
『衝月君!勝って!』
ちょうど阿紫花の背後から。
花嫁の叫び声がした。
「お前ェ、なんであの時笑った」
白い雪の中、黒い人形に守られるようにしていた白い少年は。
くす、と、花嫁の声に微笑んだ。
そして一瞬、すべての動きが止まった。
一度の瞬きの後。
白御前は黒武者の足を、叩き折っていた。
「--お前ェは自分で負けた」
「……フフ。あんたの息子、人形操ってる顔、あんたにそっくりなんだって?……こちとら、流し流され風呂屋の三助かってな稼業してたがよ、血ってのは怖ェやな」
阿紫花は目を細めた。
「あんた、あの一瞬、あのアマっ子の声で、奮い立っただろ。獣みてえな目であたしを見た。……」
「……」
「あたしに乗っかってる時、一回でもそんなツラした事なかった。女にゃイイ顔しやがって死んじまえ--とか思っても良かったんだけどよ。それじゃあたし、ミジメなだけだ。あたし全部に負けたんだ、って、そう思い知ったら、--笑えて来てよ。あのアマっ子にも、あんたにも、この村にも、……あたしの人形にも、あたし自身にも、あたしは負けちまった」
懐かしい、どこか悲しい顔で阿紫花は言った。
「それにあんた、ギラギラしたイイ顔してたぜ。そんなツラ見せられちゃあ、な。正直、もちっと見てたかったぜ」
「……」
「こんな顔見れたんだ、負けても勝ってもそんなのどうでもいい、こうなるしかないって……ああ、あたしは確かにあんたが、……嫌いじゃなかった、って、思ったんでさ」
それで--笑って、阿紫花の操る「黒武者」は壊された。
花嫁と祝言を挙げたのは、衝月だ。
「そのアマっ子と、あんた結婚した。あんた似のゴローも生まれた。……あの日の事はもう、笑い話にしようぜ。それが一番、いいんじゃねえか。あたしらもう、大人になっちまった」
阿紫花はそう、笑った。
衝月は重い気持ちで被りを振り、
「お前ェ、……それで、貞義のとこに転がり込んだのか」
「あ?……ああ、そんな男もいやしたっけねえ……」
薄情に多情な女のようにそんな科白を阿紫花は吐き、
「まともなオッサンだったぜ。貞義は。--最初だけな。人形遣う腕だけで奉公してたが、……性質悪ィんだ、あのオッサン。今じゃ分かるんだがよ、ほれ、綺麗なお嬢さん来てンだろ、広場に。サーカスの。銀髪の」
「ああ、正二様のお嬢様か」
「あの嬢ちゃんを、良いようにしてえと思ってたんだろうな。あのオッサンは。どうやったらガキから信用されっか、どうやったら……ガキでも体投げ出してくるのか、実験してたんかな。……」
「おい……」
聞きたくは無い。しかし、厭う権利もない。
衝月の心情を察しているのだろう、阿紫花は口元だけで笑う。
「貞義のクソ野郎、人形壊す実験、ガキ弄ぶ実験って、さすがにあんな人形ども作っただけある頭してやがった。人を人と思わねえ殺人人形……。あたしも、あの人の人形だったって事でさ……今思うと、狂ってやがった、あたしもあの男も。でも同じ狂ってんでも、頭の作りのいい方がマトモな振り出来ンだよな。あたしはあの人が『正しい』って思ってた。何でもしやす、って言い切った。その代わりに、……」
「英良!言うな!」
阿紫花は暗がりを見るように目を細め、
「聞きたくねえんだろ?……だよなあ。胸糞悪ィもんな」
「違う。--お前ェが、惨めなだけだからだよ」
「……惨め?今更……あのな衝月、この世で本当に惨めな事はこんな事じゃねえよ。金が無ェとか飢え死にしそうだとかもそれなりに惨めだけどな。生きてンならそういう事もあらぁな。色恋で惨め思いするなんてよ、人間様らしいがあたしは……、上等すぎらあ。金で買った女につれなくされるとか、これだと思った男に軽くあしらわれるなんざ、全然マシだ。ましてやこんな昔語り、どうて事ねえ」
女を買う事も男に冷たくされるのも、衝月には経験のない事柄だったが、言いたい事はなんとなく分かる。
「あの男は、こっちが惚れて惚れて体が疼く、ってその時になって、平然とまるで親同然って顔で『君にそういう働きは求めていない』だのよ。……この世で本当に惨めなのはよ。惚れた相手に冷めたツラで『本当の君は、もっと優れた人間だ』なんてほざかれる事だ。馬鹿に、しやがって」
「……」
「死んでザマ見やがれ。ケッ、死んで心底笑いたくなるヤツってのは、本当に死んでいいヤツだけでさ」
もしくは心の底では死んで欲しくない人間か。--そう思ったが、衝月はそこには触れず、
「……寝たのか?貞義と」
「寝てねえよ、気色悪ィな」
阿紫花は嫌悪に満ちた声で返し、
「一発付き合ってくれてりゃ、あたしだってもちっとマシな事言ってらあ」
ククク、と、まるでそれがとても面白い冗談のように阿紫花は笑った。
衝月は笑えない。
「確かに面白い男ではあったな。色恋にずっぽりはまっちまってる気持ちにさせてくれはしたが、……肝心要が無ェーんだもの。抱いてくれねえならそれで終わりでさあね。ま、エレオノールの嬢ちゃん落とす手口を実験してたんだ、ガキの男なんか、色恋の最後まで面倒見るつもりも無かったんだろうぜ」
心を許して捨てられた。簡略化されたセンテンスではある。
阿紫花は冷めた声で、
「それからは人形の腕だけであの人と繋がってる--そんな錯覚だけでさ。ま、錯覚だって気づいたのは、坊ちゃんが書類持って来たあの瞬間でさ。……分かってたんだがな」
「そうかよ。……」
「あの日、あの夜」
阿紫花は己の黒い手袋を見る。
「人形相撲の晩に、あの人が声を掛けてくれた時は、……」
--脳裏に浮かぶのは白の中の黒だ。
雪の降る森に、黒い大型車が停まっている。
『味方が、いないような顔だね。……君はここにいたいのかい?……』
否、と。
あの黒衣の男に答えるべきではなかったのかも知れない。
『僕も、一人なんだよ……』
ずっと、長い間……、と、男は呟いた。
淋しそうな人だ、と。
少年の阿紫花は思った。
今はそうは思わない。
阿紫花は憐憫と軽蔑の目で呟いた。
「一人なのは独りよがりなテメエのせいじゃねーか……」
「あ?」
「いんえ独り言。--もういいじゃねーか。昔の事なんてよ。あたしも、今は『レコ』(隠語で恋人の事)がいるんでね。あんたみたいな、昔の男っても言えねえようなダチ公、何とも思ってる暇も無ェや。、ましてや死んだクソ野郎の事なんて、ケツが痒くならあ」
ははは、と阿紫花は笑う。開き直ったような明るさに、小屋の中の湿度が下がった気がした。
衝月も息が楽になった気持ちがして安堵した。詰めていた息を吐き、
「あの--しろがねの機械か」
阿紫花は仕方なさそうに頷き、
「ホント、機械なら機械らしく器用に生きればいいんでさ……でも出来ねえ、って……」
阿紫花は目を閉じた。
「でも、あいつァあたしの人形繰りを、『それでいい』って」
『アシハナ、お前はそれでいい』
「自動人形だらけのクソ暑い砂漠の地下で、絶対に助からねえって、そんな状況だったがよ--あたしは思い切り人形を操ってた。思い切り、ブチ壊して熱くなってた」
「……」
「何年ぶりだったか分からねえや。背中預けてドンパチやって、楽しくて、……熱くなって。あたしは生きてんだ、って、ぶっ壊れてく人形見て思ってた。殺されてたまっか、あたしは、人形じゃねえ、って」
うっすら、阿紫花の目が輝いている。
「それで、『お前はそれでいい』って、言われちまってよ……」
窓枠の格子の陰影が阿紫花の顔に落ちている。
その奥で、目が少しだけ輝いた。
「あたしが惚れた側になっちまうなんてよ、……笑っちまうぜ。……でもあいつァ、退屈なんて思わせてくれねえや……。こいつとずっと危ねェ橋渡ってよ。死ぬまで、ドンパチやれたらな、って……夢見ちまった」
「……お前ェは」
衝月の脳裏に、雪の中一人微笑む少年が浮かぶ。
だがそれもすぐ消えた。
目の前の阿紫花は、夏の熱を持って確かにそこに座り込んでいる。
「……それでいいんだな」
「これ以上は神さんに釣り返さねえとならねえよ。返してやらねえけど」
「どっちだよ」
「返せねえからいらねえってこった。あたしはあたしの人形と、……あの銀髪の機械人形一個あれば上等だ。あ、酒と女は別腹だけどな」
別腹にするな。
「どうしてお前ェは最後まで話を良い形でまとめられねえんだ」と、衝月がツッコミと説教を折半した声を上げようとした瞬間。
「アシハナはいるか!」
スパン!と扉が開いた。
※
「阿紫花君、帰ったの?」
洗濯物を干そうと庭に出てきた嫁に、衝月は頷く。
「相棒の外人さんが連れてった」
「あら~、フラれたのね。父ちゃん」
「バッ……」
馬鹿野郎!と叫びたかったが、昔の事があるので何も言えない。
黙りこんだ衝月に、嫁は笑い、
「なあに?ほっぺた、バツつけて」
油性ペンでバッテン。
「……英良の馬鹿だよ」
「あいたたた、ジョージさん、優しくして……」
「やかましいわ!お前は私の顔をキャンバスか何かと勘違いしているのか!?」
「そりゃそれだけ広いオデコしてやがんだもの、描きではありやしたよ」
ヘヘへ、と笑う阿紫花に、銀髪の外国人は堪忍袋の緒が切れた、という顔だ。
衝月は「そこらのブツ壊すなよ……」と心理的に遠巻きに見るしかない。ジョージの顔の油性ペンの痕を見れば、事情はすぐに分かった。
「もういい。よーく、分かったぞアシハナ」
「あ?どーしやした?ジョージ……げえっ」
ゴッ、と、肉と骨に拳が食い込む音がした。
鳩尾に一発食らい、阿紫花はジョージの前によろめいた。
「フン。サハラでの仕返しだ」
「~、こんなトコで、蒸し返すなっつーの……」
なんとか意識は失っていない阿紫花を、ジョージは軽々と肩に担ぐ。
阿紫花は痛みに呻きながらも、大人しく担がれている。余計な事を言うと、腹の下の肩で突き上げられるからだ。
ジョージは鼻をならした。衝月に背を向ける。
「フン。お前が悪い。--邪魔したな」
「……あんたら、いつもそんな荒っぽいのかい」
「荒いか?考えた事もなかったな」
そりゃマジで物騒な話だ。
痛みで吐きそうな顔をして阿紫花が呻いた。
「……あたしら不器用なんでね……あ~、痛ェ……、衝月ゥ」
肩に担がれている阿紫花が、顔を上げて衝月を手招きする。
「?」
近寄った衝月に。
「花丸じゃなくて悪ィな」
阿紫花はバツを頬に描いた。
「あの外人さん、また怒り狂ってよ。阿紫花担いで帰ったよ。帰って説教してやるんだと。……ガキかよ、って、なあ」
衝月は垢を擦り落とすように頬を撫でた。
嫁は笑い、
「あははは、阿紫花君、冗談ばっかり。でも安心したァ。阿紫花君、なんか普通になったね」
「普通?」
「前に、--中学生の時に、人形相撲で私と父ちゃん、祝言挙げたでしょ。最後の試合の前にね……ムフフフ」
「なんだよ気味悪ィな」
「それが恋女房に言う言葉?--阿紫花君に、求愛、されちゃった」
「は?」
「最後の試合の前よ。花嫁に近づいちゃいけない、って言われてたけど、神事の関係者は近くにいないといけないじゃない?神社の息子だったし、それに阿紫花君、あの時なんでか、クラスの友達のトコに近寄らなかったじゃない」
友達に、ではなく、衝月に近づきたくなっただけだろう。
「で、言われたのよ」
『あたしに愛されちゃくれねえかい?……』
「幸せにしやすよ、って。子ども心に、綺麗だったわあ。ほら、寒くて真っ白い顔で、真っ白い袴だったじゃない。唇と目元だけ赤っぽくて--まるでお化粧したみたい。それが似合ってたのが悔しいわ~!あたしなんて、長老たちに散々、白粉塗ったオカメだ狸だ、って言われたのに!今年はハズレだ、って言うんだもん!だから、阿紫花君は男の子なのにいいなあ、って思っちゃった」
「……そうかい」
「そうかい、って、聞きたくないの?」
「あ?」
「こ、た、え!私がなんて答えたのか、知りたく無いの?結構グラッと来てたのよ!だってあんな風に言われるなんてなかったのよ!?そりゃ、父ちゃんは口下手だから、私に素直に好きと言えないのも許してあげてるけども」
オカメ顔で明るく嫁が笑う。
気立てがいいのが取り柄だ。衝月の母とも、仲が良かった。
「……そりゃどうもありがとよ。で、お前ェなんて答えた」
「そりゃ……阿紫花君の言葉は嬉しかったんだけどね」
『あたしに愛されちゃくれねえかい?……幸せにしやすよ』
『--ありがと。嬉しいな。阿紫花君優しいね。でも私、愛されなくてもいいんだ。衝月君が好き、で、それで幸せだから……もうそれだけで充分。愛されるために、愛してるワケじゃないもの』
『愛されるために……愛するんじゃない』
「可哀想なくらいに白い顔になって、そう呟いてた。あ、悪い事言ったかな、って思ったっけ。だって本当の両親じゃない、って聞いてたから、結構普通の家みたいに素直に親に反発したりとか出来ないから、愛されたがってんのかな、って思っちゃった。今なら分かるよ?本当の親とか、ニセモノとか、ないんだって事くらい。阿紫花さん夫婦は本当にいい人たちだもの。でもあの当時の阿紫花君、なんか今思うとおかしかったもの。よく笑ってるけど、なんか嘘みたいな笑い顔だったし」
「……ああ」
「でもさっき見たら、普通に笑ってたなあ。一瞬誰か分からなかった。サーカスの人かな、って思ってたら『変わらねえなあ、イ~イオカメ顔してらあ!』って。ニヤニヤ薄笑いしてるんだもの。何よ、自分だってオッサンになってる癖に、って言ったら大笑いしてた」
イイ顔、になったのは、阿紫花も同じだろう。
「……そうかい」
「良かったね。なんか、父ちゃん嬉しそうだよ」
「……そうかい」
さや、と風がはためき、「父ちゃんも干すの手伝ってよ」という嫁の声に、衝月は頷いた。
「お前にゃ花丸、くれてやるよ……」
※
「……怒ってんですかい」
阿紫花は問う。
ジョージの肩の上だ。痛みも消えたし、もう逃げないと言っているのに担がれたままなのだ。
集落へ続く森の中の小道だから、誰も見ていない。ただ歩き続ける中で、木漏れ日が斑模様を次々顔に落としていくだけだ。
「謝りやすってば……あたしが悪かった、って……」
肘を突く形で阿紫花は頬に手をやる。
「坊ちゃんには金輪際、ああいうお願いはしやせんよ。……そりゃあね。確かに坊ちゃんにゃ五年早かったと思いやすよ」
「……」
「あたしのガキの時分と一緒にしちゃ、いけやせんねえ……」
「私は」
ジョージが急に口を開いた。
「この二時間、ずっと走り通しだった」
「……はあ、そりゃ律儀なこって。GPS辿ってすぐ来ちまうだろうと踏んでたんですがねえ。だからちっと淋しかった、なんてね……」
「見つけて欲しかったんだろう?アシハナ」
「……」
「……イリノイでも、そういう子がいたよ。心配させたくてかくれるんだ。止せばいいのに、発作をこらえて、一人で棚の奥で、見つけてくれるのを待っていた。……」
イリノイか。いつの話だ。
「……その子、」
「死んだ。……死ぬ数週間前のかくれんぼだった。私が見つけてしまった。適当に探す振りをしていただけなのに。……子どもの頃の私だったら、どこに隠れるかな、と思ってしまった。そして見つけてしまった」
『ジョージ、さんかあ……』
「その子は軽い発作を起こして、それでも隠れていた。見つけた私に、泣きながらかすかに笑った。見つかっちゃった、抱っこして、連れて行って。いつも他の職員にそう言う癖に、私には言わなかった」
『僕、見つかっちゃったから、みんなのとこ行くね……』
「不快な記憶だ。どうしてあの時私は、見つけた時あの子に笑いかけてやれなかったのだろう。あの子がどうせ死ぬのなら、」
『僕、いくね……』
「優しくしてやればよかった。笑って、発作を鎮めてやればよかった」
「……」
湿っぽいのは嫌いだ。阿紫花は思う。
だが聞いていたい。ジョージが自分の事を話すのは、珍しいから。
ジョージは乾いた声で、
「お前を探さなくては、と思った時に、何故か思い出した。お前がガキ臭いからだろうな。……」
「……。そういう事にしときやすよ。で?だから2時間?走ってたんで?そういやGPS……」
「使ったら意味が無いだろう。走り回って探して欲しかったから、あんな……落書きをしたんだろう?」
「……別にそんなんじゃねーんだけどよ。……あたしガキじゃねえし」
「お前を子ども扱いした事は無い。だからこうして一緒にいるんだろうが。子ども相手に何をするというんだ。……子ども臭い大人だとは思っているがな」
「……自分だって」
「フン。何とでも言え。--来る途中、見つけたんだが、あそこが……先客か」
以前勝が試練を経験した、蓮華畑へ通じる洞窟の手前まで来て、急にジョージが歩を止めた。
「ハーイ、お二人さん。何よ、朝からイチャイチャし腐って」
心の底ではイラついているのだろう。ヴィルマはナイフをジャグリングのように何本も空中で回し、
「顔に落書き、ほとんど取れたじゃないか。良かったね。ねえ、的になってくれんなら、手伝ってよ、練習」
空中にあったはずのナイフが、カカカカカ、と鋭く木に命中していく。丸を描くようにヒットしている。いい腕だ。
最終決戦前に関係を持った癖に逃げていった阿紫花としては、そのナイフが少々怖い。ずるずると肩から下り、
「あのな、ヴィルマ……」
「すまないがフロイライン(お嬢さん)……」
ジョージがヴィルマに何か耳打ちしている。
「え?……ヤダよ、馬鹿にしないでよ。なんであたしが……」
「限界なんだ」
「……この先アンタがスキニーボーイと別れてどっかの女と付き合いだしたら、アンタのために殺し屋復活するからね」
「覚えておこう。……阿紫花、来い」
ジョージは阿紫花の手首を掴んで洞窟へ誘った。
阿紫花は二の足を踏んでいる。
「へえ?ジョージさん?ちょいと、この洞窟、怖いからくりがあるって言い伝えが--」
「私とどっちが怖いんだ?」
--二人が洞窟に消えた数分後。
集落の方から、平馬が歩いてきた。一人ではない。黒賀村の子どもたちも一緒だ。涼子やリーゼ、勝も一緒だ。
皆ビニールバッグを持っている。中には明らかに水泳パンツのままの少年も混ざっているから、川にでも行くのだろう。
おそらくサーカスの面々が、「子どもたちだけで遊んで来い」とでも言った。勿論稽古があるから遊べるのは今日だけだ。
「ヴィルマ~」
「なんだいブラザー。あたしは忙しいんだよ」
「兄ちゃん、見なかった?」
平馬は水泳パンツのままだ。「一緒に川遊びしたいんだけど、まだ逃げてんのかね」
「……。じゃないの?アタシからも子ウサギみたいに逃げ回ってるくらいだからねえ」
「そりゃヴィルマが怖ェん--」
「的になりたけりゃその先を言いな」
「……ゴメンナサイ」
「とっとと行きな洟垂れども。的にしちまうよ」
ヒュカカカカ!とヴィルマは何十本も、一気に遠く離れた木に刺してしまう。
「すげー」と感嘆の声を上げる子どもたちに、
「次はあんたらが的だよ……」
と、ゆらりと振り向いた。鬼気迫る顔だ
それを見て一目散に逃げ出した子どもたちの背中に。
弟もあの中にいればいいのに、と。
少しだけ思った。
ヴィルマは己の右手を見つめる。
「……フフ」
ナイフ投げをしている時はいつもあの子が一緒だったっけ。
「……まだ投げられるよ」
大丈夫、と呟いた。
洞窟の中は暗い。
湿っているし、なんだか空気が冷たくて淀んでいる。
村の言い伝え(という名の嘘っぱち)の真相を知らない阿紫花は、少し怯えている。
前を歩くジョージにしっかりと手を握られているから逃げられないだけで、本当なら逃げ出したい気持ちだ。
「ジョージさん……出やしょうよ……この洞窟にゃ主がいるとか--」
「--お前を探す間」
不意に前を歩いていたジョージが言った。
「二時間も走り続けた。二時間だ」
「だからすいやせんて--」
「ボラは使ってない。離れに置いてきた。この足で走って来たんだ。それなのに、私の体は息が切れる事も、心臓が早く脈打つことも、汗を滲ませる事もしなかった。出来ないからな。そういう有機的精密性は、この体には無い」
「……」
「息を切らせたかったんだ。苦しくて、辛い気分になりたかった。きっとそういう状態でこそ、見つけてやる意味があるのだと思った。汗を滴らせて、苦しい息で、お前を見つけて、……古いキネマ(映画)のようにな」
「そんな気持ちだったんですかい……」
その間、衝月と下らない事を話し込んでいたのが、少し気恥ずかしい。
オボコのように頬を染めて木陰に隠れてりゃ良かった。--ジョージが『やめてくれ』と言いそうな事を阿紫花は考え、つい強く手を握り返した。
ジョージが立ち止まった。
「この辺なら、入り口に人が立っても反響音でギリギリ感知できる」
「そうですかい?結構奥深くまで来ちまったようですけど」
水辺のすぐそばだ。清流、とまではいかないが、冷えた水の弾ける匂いがした。
「アシハナ」
水を見つめていた阿紫花は、手首を強く掴まれて目を見開いた。
水の音だ。
ちゃぷちゃぷじゃぶじゃぶ--、
いや、
「あ、あたし、あ、あ」
あたしの中の音か。
抱きかかえられ、向かい合って貫かれている。
「おかしいだろう。自分でもそう思うんだ」
ジョージは、軽々と阿紫花の体を良いように揺らし、
「欲望の必要などないはずの体だ。それは今でも変わらない。こうして君を抱いていても、肉体は性器以外はエレクトしない。息を切らしたり、腕が痛んだり、疲れたり、といった経時的疲労は存在しない。空腹も睡眠も、ほとんど訴えないはずの体なんだ」
「あ、ふあ、ジョ、ジさっ」
阿紫花は聞いていない。
急所を杭で深く穿たれて、重力などないかのように持ち上げられては自重で落とされる。持ち上げられ思わず締まったそこを、慣らしてぬるんでいるとはいえ、自分の重みでこじ開けられる。
グチャグチャと、泥のような水音が聞こえた。
「あああ、あ、ひッ」
「それなのにこうして、もう何度目かも分からないほど君に対して繰り返している。当たり前に疲労して動きをやめる事も出来ない」
「ジョージ、ジョージッ……」
「限界だと思ったさ。額のメッセージを見た時、探し出して捉まえて、ここに来てまだ一度もしていない事を、こうしてやろうと思った。逃げ出しても捉まえて、嫌がっても許してやらない、私がこんな体でも感じている欲望を、ここに」
「あ、ひあッ」
深く突き上げられ、阿紫花はしがみつく手に力を込めた。
「ブチまけてしまいたい。分からないんだ。この欲望は何だ。誤作動ではなさそうだとは分かる。おかしいだろう?ただの欲求では説明がつかない。これは--何だ」
「……」
持ち上げられ、ジョージの額より高い目線になった阿紫花の視界に。
『Je t'aime,Mais vous ne m'aimez.』
愛している、でも貴方は--。
もう消えたそのメッセージの痕跡が映った。
首を引き、そこへ何度もキスをした。
「もう消してしまった」
ジョージは言うが、阿紫花は微笑み、
「……たし、が、」
「……」
「こうしてェ、だけ……」
言葉などどうせ役に立たない。
「……」
急に再び深く打ち込まれ、阿紫花は暗い天井を仰いだ。
体に力が入らない。だがそれでも、繋がった部分だけは締め付けてしまう。
「ジョージ、もう、あたし……ッ、」
「その答えは、とても非合理だな。だが--」
気に入ったよ、と。
囁かれた瞬間。
「イクッ、出る、出ちまい、やがっ……!」
触れていないはずのそこから迸った液体が、体を反らした阿紫花の胸に飛んだ。
「ヒッ、やめ、やめてくんッ、」
迸らせる間にも、射精を促すように内部でそれがあばれ回っている。
射精の時間が長ければ長いほど、快楽の時間も延びる。
快楽に意識を飛ばしかけ、阿紫花はしがみついた。
「イクッ、また、イッ、か、堪忍、堪忍してッ……」
「出来ると思うか?私はまだ一発も満足していない」
「ひゃ、イヤだッやめ、ジョージ、ジョージッ、……」
目を潤ませ、気を飛ばしかける阿紫花の口に、ジョージはキスをした。
口内と下の急所を同時に激しくなぶられ、阿紫花は。
「……!」
自分の中に迸ったモノの存在を意識の片隅で認めながら気を失った。
※
「あはははは!英兄その顔~!やり返されてやんの」
夕飯前に戻ってきた長兄の顔を見て、れんげは大笑いだ。
「プッ、英兄自業自得」
百合は素直に笑って、「ジョージさんナイス」
「当たり前じゃ!人様のお顔になんて真似したんじゃお前は!それくらいで許してもらって、有難いと思わんか!」
養父も怒鳴り散らしているが、
「しかしお前、……面白い顔になったなあ。プクップププ」
「オヤジさん、そいつはあたしでも傷つきやすよ……」
阿紫花はへばっていた。
あの後、たっぷり時間をかけて弄繰り回され、大量に注がれて腰が抜けた。最後の方の記憶などすっかり飛んでいる。気がついたら夕焼け前の薄青い空の下を、ジョージに背負われていただけだ。後始末から着衣から、すべてジョージがやったのはいい。
問題は。
「頭痛ェや……こんな顔で痛がっても、笑えるだけでさ」
ジョージの落書きだ。チョビ髭やら眉間に皺やら、まあ阿紫花の描いた落書きよりはマシではある。
「晩御飯食べるの?英良。具合悪いなら、何か別なの作りましょうか」
菊はひやむぎの束を見せ、「今晩鰻なんだけど、ひやむぎとか作りましょうか?」
「鰻……」
「どうする?あ、お父さんお風呂もう使って下さい。風呂から上がったらお夕飯にしますから」
菊の言葉に、れんげと百合は立ち上がり、
「やった、鰻だ!」
「ねえ、櫃まぶし?お重?」
菊は肩をすくめ、
「お重よ。手伝ってよ。それと、平馬と勝にはナイショよ。貰い物なんだから」
「やった!平馬と勝ちん、今頃カレーかな」
「ねえ、おにぎりの具にしてさ、少し残してあげてたらどうかな……かわいそうだよ」
菊の答えに、れんげと百合ははしゃいで台所へ行ってしまった。
養母は既に台所だ。
ぐったりと寝転がる阿紫花の額に、ジョージが濡れタオルを載せてやっている。そんな光景が居心地悪かったのだろう、養父は咳払いをして立ち上がった。
「その、なんだ。風呂へな」
「へえへえ。ごゆっくり……」
「うむ」
養父は何だかイヤに四角張って風呂場へ消えた。
誰も居なくなってから、阿紫花はちらとジョージに目を遣り、
「あんた、鰻食うなよ」
「私の体に影響のある食品なのか?」
「……どっちかってえと、あんたよりあたしの体にかね……」
「?」
「ねえ、菊姉?」
百合が茄子の煮びたしを作りながら、
「朝、ジョージさんのオデコに、何か書いてたでしょ?あれってどういう意味だったの?」
「え?……」
「今見たら、英兄のオデコにも何か書いてたんだけど、英語じゃないんだもの。分かんない」
れんげが横から、
「英語だってそんなに分かんないじゃん。ねえ、茄子にししとうも入れようよ。美味しいかもよ」
「え~……ししとう?いい?お母さん。いい?--英語なら少しは分かるわよ。ねえ、菊姉。あれってどういう意味?分かるんでしょ?菊姉なら両方とも」
「……」
割烹着を着て、菊はお吸い物の味を確かめていたのだが。
「--ジョージに聞いたら?案外、答えてくれるかも知れないわよ。しつこく聞けばね」
ついさっき長兄の額に書かれていたメッセージには。
『Sie merken es nicht.』(君が気づかないだけだ)
英良がドイツ語までは知らないだろうと踏んで書いたのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
それは菊には分からないけれど。
「勝には教えるべきかしらね?……」
菊と勝が語学に達者な事を、ジョージに教えるのだけは、しばらくやめておこう。
そう心に決めて、菊は鍋に醤油を回してかけ入れた。
END
広場へ続く木漏れ日の中、遠くから誰かが歩いてくる。
登山用リュック一つの、まるでピクニックにでも出かけるような軽装だ。
高綱の練習用の低い綱を、鉄棒とシーソーの間に張って、上でバランスを取っていた涼子は気づき、手を挙げた。
「あ、中国のお姉ちゃんだ」
「ハ~イ!元気?みんな!」
ミンシアだ。遠くから駆けて来る。「来ちゃった!」
「お~、よく来たな」
法安は懐かしげに、「元気だったか?」
「元気よォ!みんなも元気そうね」
仲町サーカスの面々を見回し、ミンシアは笑う。
「姐さん!」
鳴海が太い腕を掲げると、ミンシアは細腕をそこに交差させた。
「姐さん、久しぶり」
「おう、元気だった?ミンハイ。しろがねと仲良くやってる?」
鳴海の隣に来ていたエレオノールの頬が一気に赤く染まり、一同は大笑いだ。
「てか、よく来れたわね。ハリウッド女優って、いつでもパパラッチに狙われてるんでしょ?」
「そうだよ。この村にまでパパラッチ来ちゃうんじゃない?」
三牛親子の言葉に、ノリとヒロは「余計な事言うな!」と威嚇する。
鳴海も眉を潜ませ、
「映画、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ!今は夏休み。それに、西海岸のアパート(外国の『アパート』は日本のマンションに相当する)には、フウさんに貰った自動人形置いてきたから」
ミンシアは笑って、
「趣味はヨガとピラティス、ってインタビューに答えておいて良かったわ。休日ずっと引き籠っていてもおかしくないものね。私の代わりに、結構規則正しい生活しててくれてるはずよ」
「ふうん。なら大丈夫かな」
「もし何かあっても、そこはハリウッドよ、話題になればちょっとやそっとは何でもないわ!--そういえば、ギイさんやフウさんは?さっきジョージに会ったんだけど、一人だったわ。阿紫花探してるんですって」
「あ……」と、一同は苦笑いを浮かべる。
ジョージは仔細を説明していかなかったらしい。エレオノールが説明すると、ミンシアは呆れて目を丸くした。
「まあ、阿紫花!馬鹿ね~……ホント、どうしようもないわ。でも、面白い写真撮れたからいいか。ジョージの顔に落書きなんてね」
ミンシアは日本製の一眼レフを持ち上げ、
「エリ王女にね、送ってあげるの」
「エリ……」
鳴海の呟きに、ミンシアは微笑み、
「エリ王女は自由に見に来れないでしょう?王女様には休日なんてないもの。王女様は自動人形に勤まる仕事じゃないから、私みたいに出て来れないじゃない?--だから写真をね。黒賀村の事、私が話したらとても行きたがってたから」
「そっか……」
「うふふ、いつもはパパラッチされる私が今度はパパラッチする側よ。いいサーカス見せてね。ミンハイ、しろがね」
フラッシュが輝き。
驚いた顔の鳴海とエレオノールの一瞬を、ミンシアは撮影した。
「うふふ、いい顔いい顔」
「アナタもいい顔よ、お嬢ちゃん」
スゥ、と、ミンシアの背後に陰が立つ。
ミンシアの頬に頬を寄せ、ヴィルマが囁く。
「いい顔になったじゃない」
「そ、そう?てか近いわ。ヴィルマ」
相変わらずスタイルのいいアメリカ美女に、ミンシアは畏怖と対抗心を覚える。ほとんど胸が見えそうなタンクトップ一枚で、乳首が浮いても平然としているのは、さすがアメリカンガール、としか言いようが無い。サーカスの面々は見慣れているが、これが健全な男子なら、真っ赤になって前かがみだ。
髪を黒く染めるのはやめたらしく、赤みがかった茶髪になっている。
ふと、ノリがヴィルマに、
「朝のナイフ投げ終わったのか?長かったじゃん。朝飯食ってないだろ、もうないぜ」
ヴィルマは肩をすくめ、
「いいよ、食欲ない。ちょいと考え事しててね……。観客もいないのに余計に投げちまったよ。でもあたしからスキニーボーイかっさらった銀髪のロボコップに逢って、やる気無くした。あたしのオッパイ見ても顔色変えないんでやんの……」
ジョージの事だろう。
鳴海はうんざりと、
「ジョージ、どんだけ走ってんだよ……」
「しろがねならば一日でも走れる、鳴海」
エレオノールは胸を叩き、「私も出来る」
「んん、それはしなくていいぞ」
ボケとツッコミが最近はっきりしてきた鳴海とエレオノールをよそに、ヴィルマはナイフを指でなぞりミンシアを見る。
「可愛いお嬢ちゃん、アタシのナイフの的にならない?……」
まんざら嫌いでもないタイプなのだろう。ヴィルマは以前エレオノールにしたのと同じ目で、
「可愛い顔してるじゃない。あっちの女優なら、こういうの動じないんじゃない?」
ハリウッドの同性愛スキャンダルは多い。
「スキニーボーイに振られてこっち、男も女もその気になれなかったんだけど……どう?ナイフ投げ以外のアタシのテク、教えてあげるよ……」
リーゼは以前のように「好きだケド。いけないワ。あわわ」と目をキラキラさせている。
ミンシアは笑い、
「そうね、考えさせて」
「……」
「アナタを心から好きになれたら、ナイフの的でも何でもなってあげる。恋人として、好きになれたらね」
「『愛は火が点いた友情』って言葉、信じる?……」
「そうねえ。『友情は愛に変われるが、愛は友情にならない』ってのは嘘だけど。友情は愛になるかもね」
はぐらかすようにミンシアは笑う。
「一筋縄じゃいかないお嬢ちゃんね」
ヴィルマは笑い、
「練習してくる。夜までには戻るから」
そう言って、森へ続く道へ消えた。
「--熱心ね。でも少し、……張り詰めてるわ」
--ーミンシアは気遣うように呟く。
鳴海は肩をすくめ、周囲が聞いていない事を確認し、
「……体を新しくしたはいいが、今度は正確すぎるんだと。投げるナイフが全部思った場所にしか行かないんだとさ。少しも外れないし、狂わない。……つまんねえんだろ」
「……」
「そりゃ、的やってる人間は安心するけどな。投げてる本人は、居た堪れねえよ……」
※
「居た堪れなかった」
阿紫花は天井の染みを見つめ、呟いた。
「親父とお袋は悪くねえ。行く先の無ェあたしを貰ってくれた。守ろうとしてくれた。……あたしは別に長や人形使いどもも、嫌いじゃなかったし、恨んでもねェ。そんなの、なんつうか、次元の違う話だ。……」
日が高くなりつつある。
窓から差し込む陰の形の変化に、阿紫花は口角を歪める。
「ただあたし、……ちょいと苦手だったんでさ。……でけえ図体した人形遣いどもとか、何するってんでもねえのにな」
脳裏に浮かんだのは、二十年間の言葉だ。
『何しても構やしやせん。何でもしやす』
中学生の子どもが、あの状況で言える言葉か?
外から五郎の「川行って来る!」というまだまだ無邪気な声がした。
阿紫花はあの時、五郎とそう変わらない年齢だった。
子ども顔をした、--商売女のような。
いつ、どこでそんなものを知った?この村ではあるまい。そんな女もいない事はなかっただろうが、どんな性質の悪そうな女でも、子どもには大人らしい対応をしたはずだ。黒賀村の女どもはそういう、心根の丈夫さを持っている。
まさか、この村の男に強要されて、というのはあるまい。そんな趣味の大人がもしいれば、--秘密裏に「仕置き」するだろう。それが長の息子でも、だ。秘密は秘密を守らない。村の秘密を守る人間には、そんな忌まわしい秘密など許されない。
じゃあどこで?考えられるのは、黒賀村に来る前の、もっとずっとガキだった頃しか--。
--衝月はぞっとした。ひくりと横隔膜が震えた。
息子の--五郎の顔が脳裏に浮かんだ。
阿紫花は鼻で哂う。
「今じゃ何クソって話だ。ここに来るまで知らなかったぜ。テメェが大人になっちまったら、ガキの頃のテメェが馬鹿に見えらあ。大人だってまともなのもいらあね。……衝月。そんな、バケモノ見るような顔、すんな」
「違う……阿紫花ァ、俺は」
「違わねえ。何も、アンタは間違ってねえよ。……」
黒手袋が、タバコの箱をポケットから取り出した、
少し手が震えている。そう見えたのは衝月の気のせいか。
「昔から、な……アンタは正しい。今もそうだ。……」
「英……」
「衝月」
今はもう、昔の話。--阿紫花はそう言った。
「そう思う事にしようぜ。忘れちまって、よ……」
阿紫花はタバコを咥えた。
火は無い。
もうこの小屋には、どんなに小さな火も灯ることは無いのだ。
衝月は首を振り、
「お前ェは忘れてェだろ。でも俺は、忘れられねェ。--なんでお前は、人形を持って行った。俺の人形とお前ェの人形を交換して」
「……」
阿紫花はクス、と微笑んだ。
「分かンねえかね。だろうな」
人を小馬鹿にしたような笑みだ。
衝月はすごんだ。効果は無いと分かっている。
「答えろよ。……」
「叩き壊したかったのさ」
阿紫花は呟いた。
「アンタがイイって言うから、あたしはあたしに似た人形を作っちまった。でもあたし、あんな人形、本当は大嫌ェだった。金もったいねえからって言い訳して、面倒臭ェ一心で白一色にしてやったら、アンタ喜んで、自分の人形は黒にしやがった。どうせ負ける人形、負けなきゃいけない人形だ、あたしゃ精々派手にブチ壊してやろうとしか思ってなかったんでェ」
「負ける?お前ェが?」
「あたしが一番になって誰が喜ぶよ?それにあたしが自分で白御前を操って一回戦で潰せば、……決勝であんたとやらなくて済む。気に入らない人形、あんたのために一回戦で潰してやろうとしか思ってなかったでェ」
阿紫花は夢を見るような目で、
「でも前の夜に、目が覚めちまった。人形相撲で負けても勝っても、あたしは負けだ。一番になっても、負けは変わらない。……」
「どういう意味だ?」
阿紫花は答えず、
「……だったら壊してやろうと思った。決勝までお互い勝ち進みゃ、あたしはあたしの手で、あたしに似た人形をブッ壊す。あんたに似た黒い人形で、あたしを、……」
壊れたかったンでさ。--夢を見るような瞳のまま、阿紫花は呟いた。
「あんた、あたしを壊してくれねェんだもの……」
ぞくりとするような笑みだった。
二十年経っても変わらない、いや、なおいっそう凄絶に。
「だからあたし、あんたの人形であたしの人形、ブッ壊したんでさ」
衝月を見つめ、暗く紅い色の滲む笑みを浮かべた。
※
記憶の中で、歓声が聞こえる。
人形のための土俵の外から。
土俵が結界だとか、義父親はそう言った。
外界と隔てられた場所。
神聖なその場所で、必ずどちらかがぶちのめされる。
--最初は互角に見えた。
阿紫花の操る、衝月の拵えた「黒武者」。
衝月の操る、阿紫花の拵えた「白御前」。
大きさで言えば黒武者がでかいが、白御前は素早い。
繰り手は互角と、皆が思い込んでいた。
「お前ェ、ずっと力を隠してやがった」
武者の腕が、足が。
白御前よりも素早く動いた。
作った衝月ですら思いもせぬ動きだった。
重量のある、目にも留まらぬ刀の動き。
あっという間に白御前はひび割れ、崩れていく。
「みんな、あんたを応援してやしたっけ……」
阿紫花の腕が立ちすぎた。まるで理不尽な暴行を、白い人形へ加えているようにみえただろう。衝月への応援は、阿紫花への様々な反発の集まりだった。
阿紫花の人形繰りの腕への妬み、打ち解けぬ態度への大人たちの不信、阿紫花の態度に違和感を感じていた級友たちの不満、各個はささやかなはずの悪意が、人形相撲の場で一つの大きなうねりとなっていた。
「丸盆(リング)に立つ人形があたしみたいな木偶じゃあ、観客はそりゃ金返せってなもんでさ……」
罵倒と歓声が、肌に刺さるように身に沁みた。
「……あたしの人形を、あたしは羨ましいって、思っちまった」
壊れることが出来て。それで村のみんなに応援されて。
「あんたに、操ってもらってさあ……」
「じゃあなんで手を抜いた」
あと一撃で阿紫花の勝利、というその瞬間。
『衝月君!勝って!』
ちょうど阿紫花の背後から。
花嫁の叫び声がした。
「お前ェ、なんであの時笑った」
白い雪の中、黒い人形に守られるようにしていた白い少年は。
くす、と、花嫁の声に微笑んだ。
そして一瞬、すべての動きが止まった。
一度の瞬きの後。
白御前は黒武者の足を、叩き折っていた。
「--お前ェは自分で負けた」
「……フフ。あんたの息子、人形操ってる顔、あんたにそっくりなんだって?……こちとら、流し流され風呂屋の三助かってな稼業してたがよ、血ってのは怖ェやな」
阿紫花は目を細めた。
「あんた、あの一瞬、あのアマっ子の声で、奮い立っただろ。獣みてえな目であたしを見た。……」
「……」
「あたしに乗っかってる時、一回でもそんなツラした事なかった。女にゃイイ顔しやがって死んじまえ--とか思っても良かったんだけどよ。それじゃあたし、ミジメなだけだ。あたし全部に負けたんだ、って、そう思い知ったら、--笑えて来てよ。あのアマっ子にも、あんたにも、この村にも、……あたしの人形にも、あたし自身にも、あたしは負けちまった」
懐かしい、どこか悲しい顔で阿紫花は言った。
「それにあんた、ギラギラしたイイ顔してたぜ。そんなツラ見せられちゃあ、な。正直、もちっと見てたかったぜ」
「……」
「こんな顔見れたんだ、負けても勝ってもそんなのどうでもいい、こうなるしかないって……ああ、あたしは確かにあんたが、……嫌いじゃなかった、って、思ったんでさ」
それで--笑って、阿紫花の操る「黒武者」は壊された。
花嫁と祝言を挙げたのは、衝月だ。
「そのアマっ子と、あんた結婚した。あんた似のゴローも生まれた。……あの日の事はもう、笑い話にしようぜ。それが一番、いいんじゃねえか。あたしらもう、大人になっちまった」
阿紫花はそう、笑った。
衝月は重い気持ちで被りを振り、
「お前ェ、……それで、貞義のとこに転がり込んだのか」
「あ?……ああ、そんな男もいやしたっけねえ……」
薄情に多情な女のようにそんな科白を阿紫花は吐き、
「まともなオッサンだったぜ。貞義は。--最初だけな。人形遣う腕だけで奉公してたが、……性質悪ィんだ、あのオッサン。今じゃ分かるんだがよ、ほれ、綺麗なお嬢さん来てンだろ、広場に。サーカスの。銀髪の」
「ああ、正二様のお嬢様か」
「あの嬢ちゃんを、良いようにしてえと思ってたんだろうな。あのオッサンは。どうやったらガキから信用されっか、どうやったら……ガキでも体投げ出してくるのか、実験してたんかな。……」
「おい……」
聞きたくは無い。しかし、厭う権利もない。
衝月の心情を察しているのだろう、阿紫花は口元だけで笑う。
「貞義のクソ野郎、人形壊す実験、ガキ弄ぶ実験って、さすがにあんな人形ども作っただけある頭してやがった。人を人と思わねえ殺人人形……。あたしも、あの人の人形だったって事でさ……今思うと、狂ってやがった、あたしもあの男も。でも同じ狂ってんでも、頭の作りのいい方がマトモな振り出来ンだよな。あたしはあの人が『正しい』って思ってた。何でもしやす、って言い切った。その代わりに、……」
「英良!言うな!」
阿紫花は暗がりを見るように目を細め、
「聞きたくねえんだろ?……だよなあ。胸糞悪ィもんな」
「違う。--お前ェが、惨めなだけだからだよ」
「……惨め?今更……あのな衝月、この世で本当に惨めな事はこんな事じゃねえよ。金が無ェとか飢え死にしそうだとかもそれなりに惨めだけどな。生きてンならそういう事もあらぁな。色恋で惨め思いするなんてよ、人間様らしいがあたしは……、上等すぎらあ。金で買った女につれなくされるとか、これだと思った男に軽くあしらわれるなんざ、全然マシだ。ましてやこんな昔語り、どうて事ねえ」
女を買う事も男に冷たくされるのも、衝月には経験のない事柄だったが、言いたい事はなんとなく分かる。
「あの男は、こっちが惚れて惚れて体が疼く、ってその時になって、平然とまるで親同然って顔で『君にそういう働きは求めていない』だのよ。……この世で本当に惨めなのはよ。惚れた相手に冷めたツラで『本当の君は、もっと優れた人間だ』なんてほざかれる事だ。馬鹿に、しやがって」
「……」
「死んでザマ見やがれ。ケッ、死んで心底笑いたくなるヤツってのは、本当に死んでいいヤツだけでさ」
もしくは心の底では死んで欲しくない人間か。--そう思ったが、衝月はそこには触れず、
「……寝たのか?貞義と」
「寝てねえよ、気色悪ィな」
阿紫花は嫌悪に満ちた声で返し、
「一発付き合ってくれてりゃ、あたしだってもちっとマシな事言ってらあ」
ククク、と、まるでそれがとても面白い冗談のように阿紫花は笑った。
衝月は笑えない。
「確かに面白い男ではあったな。色恋にずっぽりはまっちまってる気持ちにさせてくれはしたが、……肝心要が無ェーんだもの。抱いてくれねえならそれで終わりでさあね。ま、エレオノールの嬢ちゃん落とす手口を実験してたんだ、ガキの男なんか、色恋の最後まで面倒見るつもりも無かったんだろうぜ」
心を許して捨てられた。簡略化されたセンテンスではある。
阿紫花は冷めた声で、
「それからは人形の腕だけであの人と繋がってる--そんな錯覚だけでさ。ま、錯覚だって気づいたのは、坊ちゃんが書類持って来たあの瞬間でさ。……分かってたんだがな」
「そうかよ。……」
「あの日、あの夜」
阿紫花は己の黒い手袋を見る。
「人形相撲の晩に、あの人が声を掛けてくれた時は、……」
--脳裏に浮かぶのは白の中の黒だ。
雪の降る森に、黒い大型車が停まっている。
『味方が、いないような顔だね。……君はここにいたいのかい?……』
否、と。
あの黒衣の男に答えるべきではなかったのかも知れない。
『僕も、一人なんだよ……』
ずっと、長い間……、と、男は呟いた。
淋しそうな人だ、と。
少年の阿紫花は思った。
今はそうは思わない。
阿紫花は憐憫と軽蔑の目で呟いた。
「一人なのは独りよがりなテメエのせいじゃねーか……」
「あ?」
「いんえ独り言。--もういいじゃねーか。昔の事なんてよ。あたしも、今は『レコ』(隠語で恋人の事)がいるんでね。あんたみたいな、昔の男っても言えねえようなダチ公、何とも思ってる暇も無ェや。、ましてや死んだクソ野郎の事なんて、ケツが痒くならあ」
ははは、と阿紫花は笑う。開き直ったような明るさに、小屋の中の湿度が下がった気がした。
衝月も息が楽になった気持ちがして安堵した。詰めていた息を吐き、
「あの--しろがねの機械か」
阿紫花は仕方なさそうに頷き、
「ホント、機械なら機械らしく器用に生きればいいんでさ……でも出来ねえ、って……」
阿紫花は目を閉じた。
「でも、あいつァあたしの人形繰りを、『それでいい』って」
『アシハナ、お前はそれでいい』
「自動人形だらけのクソ暑い砂漠の地下で、絶対に助からねえって、そんな状況だったがよ--あたしは思い切り人形を操ってた。思い切り、ブチ壊して熱くなってた」
「……」
「何年ぶりだったか分からねえや。背中預けてドンパチやって、楽しくて、……熱くなって。あたしは生きてんだ、って、ぶっ壊れてく人形見て思ってた。殺されてたまっか、あたしは、人形じゃねえ、って」
うっすら、阿紫花の目が輝いている。
「それで、『お前はそれでいい』って、言われちまってよ……」
窓枠の格子の陰影が阿紫花の顔に落ちている。
その奥で、目が少しだけ輝いた。
「あたしが惚れた側になっちまうなんてよ、……笑っちまうぜ。……でもあいつァ、退屈なんて思わせてくれねえや……。こいつとずっと危ねェ橋渡ってよ。死ぬまで、ドンパチやれたらな、って……夢見ちまった」
「……お前ェは」
衝月の脳裏に、雪の中一人微笑む少年が浮かぶ。
だがそれもすぐ消えた。
目の前の阿紫花は、夏の熱を持って確かにそこに座り込んでいる。
「……それでいいんだな」
「これ以上は神さんに釣り返さねえとならねえよ。返してやらねえけど」
「どっちだよ」
「返せねえからいらねえってこった。あたしはあたしの人形と、……あの銀髪の機械人形一個あれば上等だ。あ、酒と女は別腹だけどな」
別腹にするな。
「どうしてお前ェは最後まで話を良い形でまとめられねえんだ」と、衝月がツッコミと説教を折半した声を上げようとした瞬間。
「アシハナはいるか!」
スパン!と扉が開いた。
※
「阿紫花君、帰ったの?」
洗濯物を干そうと庭に出てきた嫁に、衝月は頷く。
「相棒の外人さんが連れてった」
「あら~、フラれたのね。父ちゃん」
「バッ……」
馬鹿野郎!と叫びたかったが、昔の事があるので何も言えない。
黙りこんだ衝月に、嫁は笑い、
「なあに?ほっぺた、バツつけて」
油性ペンでバッテン。
「……英良の馬鹿だよ」
「あいたたた、ジョージさん、優しくして……」
「やかましいわ!お前は私の顔をキャンバスか何かと勘違いしているのか!?」
「そりゃそれだけ広いオデコしてやがんだもの、描きではありやしたよ」
ヘヘへ、と笑う阿紫花に、銀髪の外国人は堪忍袋の緒が切れた、という顔だ。
衝月は「そこらのブツ壊すなよ……」と心理的に遠巻きに見るしかない。ジョージの顔の油性ペンの痕を見れば、事情はすぐに分かった。
「もういい。よーく、分かったぞアシハナ」
「あ?どーしやした?ジョージ……げえっ」
ゴッ、と、肉と骨に拳が食い込む音がした。
鳩尾に一発食らい、阿紫花はジョージの前によろめいた。
「フン。サハラでの仕返しだ」
「~、こんなトコで、蒸し返すなっつーの……」
なんとか意識は失っていない阿紫花を、ジョージは軽々と肩に担ぐ。
阿紫花は痛みに呻きながらも、大人しく担がれている。余計な事を言うと、腹の下の肩で突き上げられるからだ。
ジョージは鼻をならした。衝月に背を向ける。
「フン。お前が悪い。--邪魔したな」
「……あんたら、いつもそんな荒っぽいのかい」
「荒いか?考えた事もなかったな」
そりゃマジで物騒な話だ。
痛みで吐きそうな顔をして阿紫花が呻いた。
「……あたしら不器用なんでね……あ~、痛ェ……、衝月ゥ」
肩に担がれている阿紫花が、顔を上げて衝月を手招きする。
「?」
近寄った衝月に。
「花丸じゃなくて悪ィな」
阿紫花はバツを頬に描いた。
「あの外人さん、また怒り狂ってよ。阿紫花担いで帰ったよ。帰って説教してやるんだと。……ガキかよ、って、なあ」
衝月は垢を擦り落とすように頬を撫でた。
嫁は笑い、
「あははは、阿紫花君、冗談ばっかり。でも安心したァ。阿紫花君、なんか普通になったね」
「普通?」
「前に、--中学生の時に、人形相撲で私と父ちゃん、祝言挙げたでしょ。最後の試合の前にね……ムフフフ」
「なんだよ気味悪ィな」
「それが恋女房に言う言葉?--阿紫花君に、求愛、されちゃった」
「は?」
「最後の試合の前よ。花嫁に近づいちゃいけない、って言われてたけど、神事の関係者は近くにいないといけないじゃない?神社の息子だったし、それに阿紫花君、あの時なんでか、クラスの友達のトコに近寄らなかったじゃない」
友達に、ではなく、衝月に近づきたくなっただけだろう。
「で、言われたのよ」
『あたしに愛されちゃくれねえかい?……』
「幸せにしやすよ、って。子ども心に、綺麗だったわあ。ほら、寒くて真っ白い顔で、真っ白い袴だったじゃない。唇と目元だけ赤っぽくて--まるでお化粧したみたい。それが似合ってたのが悔しいわ~!あたしなんて、長老たちに散々、白粉塗ったオカメだ狸だ、って言われたのに!今年はハズレだ、って言うんだもん!だから、阿紫花君は男の子なのにいいなあ、って思っちゃった」
「……そうかい」
「そうかい、って、聞きたくないの?」
「あ?」
「こ、た、え!私がなんて答えたのか、知りたく無いの?結構グラッと来てたのよ!だってあんな風に言われるなんてなかったのよ!?そりゃ、父ちゃんは口下手だから、私に素直に好きと言えないのも許してあげてるけども」
オカメ顔で明るく嫁が笑う。
気立てがいいのが取り柄だ。衝月の母とも、仲が良かった。
「……そりゃどうもありがとよ。で、お前ェなんて答えた」
「そりゃ……阿紫花君の言葉は嬉しかったんだけどね」
『あたしに愛されちゃくれねえかい?……幸せにしやすよ』
『--ありがと。嬉しいな。阿紫花君優しいね。でも私、愛されなくてもいいんだ。衝月君が好き、で、それで幸せだから……もうそれだけで充分。愛されるために、愛してるワケじゃないもの』
『愛されるために……愛するんじゃない』
「可哀想なくらいに白い顔になって、そう呟いてた。あ、悪い事言ったかな、って思ったっけ。だって本当の両親じゃない、って聞いてたから、結構普通の家みたいに素直に親に反発したりとか出来ないから、愛されたがってんのかな、って思っちゃった。今なら分かるよ?本当の親とか、ニセモノとか、ないんだって事くらい。阿紫花さん夫婦は本当にいい人たちだもの。でもあの当時の阿紫花君、なんか今思うとおかしかったもの。よく笑ってるけど、なんか嘘みたいな笑い顔だったし」
「……ああ」
「でもさっき見たら、普通に笑ってたなあ。一瞬誰か分からなかった。サーカスの人かな、って思ってたら『変わらねえなあ、イ~イオカメ顔してらあ!』って。ニヤニヤ薄笑いしてるんだもの。何よ、自分だってオッサンになってる癖に、って言ったら大笑いしてた」
イイ顔、になったのは、阿紫花も同じだろう。
「……そうかい」
「良かったね。なんか、父ちゃん嬉しそうだよ」
「……そうかい」
さや、と風がはためき、「父ちゃんも干すの手伝ってよ」という嫁の声に、衝月は頷いた。
「お前にゃ花丸、くれてやるよ……」
※
「……怒ってんですかい」
阿紫花は問う。
ジョージの肩の上だ。痛みも消えたし、もう逃げないと言っているのに担がれたままなのだ。
集落へ続く森の中の小道だから、誰も見ていない。ただ歩き続ける中で、木漏れ日が斑模様を次々顔に落としていくだけだ。
「謝りやすってば……あたしが悪かった、って……」
肘を突く形で阿紫花は頬に手をやる。
「坊ちゃんには金輪際、ああいうお願いはしやせんよ。……そりゃあね。確かに坊ちゃんにゃ五年早かったと思いやすよ」
「……」
「あたしのガキの時分と一緒にしちゃ、いけやせんねえ……」
「私は」
ジョージが急に口を開いた。
「この二時間、ずっと走り通しだった」
「……はあ、そりゃ律儀なこって。GPS辿ってすぐ来ちまうだろうと踏んでたんですがねえ。だからちっと淋しかった、なんてね……」
「見つけて欲しかったんだろう?アシハナ」
「……」
「……イリノイでも、そういう子がいたよ。心配させたくてかくれるんだ。止せばいいのに、発作をこらえて、一人で棚の奥で、見つけてくれるのを待っていた。……」
イリノイか。いつの話だ。
「……その子、」
「死んだ。……死ぬ数週間前のかくれんぼだった。私が見つけてしまった。適当に探す振りをしていただけなのに。……子どもの頃の私だったら、どこに隠れるかな、と思ってしまった。そして見つけてしまった」
『ジョージ、さんかあ……』
「その子は軽い発作を起こして、それでも隠れていた。見つけた私に、泣きながらかすかに笑った。見つかっちゃった、抱っこして、連れて行って。いつも他の職員にそう言う癖に、私には言わなかった」
『僕、見つかっちゃったから、みんなのとこ行くね……』
「不快な記憶だ。どうしてあの時私は、見つけた時あの子に笑いかけてやれなかったのだろう。あの子がどうせ死ぬのなら、」
『僕、いくね……』
「優しくしてやればよかった。笑って、発作を鎮めてやればよかった」
「……」
湿っぽいのは嫌いだ。阿紫花は思う。
だが聞いていたい。ジョージが自分の事を話すのは、珍しいから。
ジョージは乾いた声で、
「お前を探さなくては、と思った時に、何故か思い出した。お前がガキ臭いからだろうな。……」
「……。そういう事にしときやすよ。で?だから2時間?走ってたんで?そういやGPS……」
「使ったら意味が無いだろう。走り回って探して欲しかったから、あんな……落書きをしたんだろう?」
「……別にそんなんじゃねーんだけどよ。……あたしガキじゃねえし」
「お前を子ども扱いした事は無い。だからこうして一緒にいるんだろうが。子ども相手に何をするというんだ。……子ども臭い大人だとは思っているがな」
「……自分だって」
「フン。何とでも言え。--来る途中、見つけたんだが、あそこが……先客か」
以前勝が試練を経験した、蓮華畑へ通じる洞窟の手前まで来て、急にジョージが歩を止めた。
「ハーイ、お二人さん。何よ、朝からイチャイチャし腐って」
心の底ではイラついているのだろう。ヴィルマはナイフをジャグリングのように何本も空中で回し、
「顔に落書き、ほとんど取れたじゃないか。良かったね。ねえ、的になってくれんなら、手伝ってよ、練習」
空中にあったはずのナイフが、カカカカカ、と鋭く木に命中していく。丸を描くようにヒットしている。いい腕だ。
最終決戦前に関係を持った癖に逃げていった阿紫花としては、そのナイフが少々怖い。ずるずると肩から下り、
「あのな、ヴィルマ……」
「すまないがフロイライン(お嬢さん)……」
ジョージがヴィルマに何か耳打ちしている。
「え?……ヤダよ、馬鹿にしないでよ。なんであたしが……」
「限界なんだ」
「……この先アンタがスキニーボーイと別れてどっかの女と付き合いだしたら、アンタのために殺し屋復活するからね」
「覚えておこう。……阿紫花、来い」
ジョージは阿紫花の手首を掴んで洞窟へ誘った。
阿紫花は二の足を踏んでいる。
「へえ?ジョージさん?ちょいと、この洞窟、怖いからくりがあるって言い伝えが--」
「私とどっちが怖いんだ?」
--二人が洞窟に消えた数分後。
集落の方から、平馬が歩いてきた。一人ではない。黒賀村の子どもたちも一緒だ。涼子やリーゼ、勝も一緒だ。
皆ビニールバッグを持っている。中には明らかに水泳パンツのままの少年も混ざっているから、川にでも行くのだろう。
おそらくサーカスの面々が、「子どもたちだけで遊んで来い」とでも言った。勿論稽古があるから遊べるのは今日だけだ。
「ヴィルマ~」
「なんだいブラザー。あたしは忙しいんだよ」
「兄ちゃん、見なかった?」
平馬は水泳パンツのままだ。「一緒に川遊びしたいんだけど、まだ逃げてんのかね」
「……。じゃないの?アタシからも子ウサギみたいに逃げ回ってるくらいだからねえ」
「そりゃヴィルマが怖ェん--」
「的になりたけりゃその先を言いな」
「……ゴメンナサイ」
「とっとと行きな洟垂れども。的にしちまうよ」
ヒュカカカカ!とヴィルマは何十本も、一気に遠く離れた木に刺してしまう。
「すげー」と感嘆の声を上げる子どもたちに、
「次はあんたらが的だよ……」
と、ゆらりと振り向いた。鬼気迫る顔だ
それを見て一目散に逃げ出した子どもたちの背中に。
弟もあの中にいればいいのに、と。
少しだけ思った。
ヴィルマは己の右手を見つめる。
「……フフ」
ナイフ投げをしている時はいつもあの子が一緒だったっけ。
「……まだ投げられるよ」
大丈夫、と呟いた。
洞窟の中は暗い。
湿っているし、なんだか空気が冷たくて淀んでいる。
村の言い伝え(という名の嘘っぱち)の真相を知らない阿紫花は、少し怯えている。
前を歩くジョージにしっかりと手を握られているから逃げられないだけで、本当なら逃げ出したい気持ちだ。
「ジョージさん……出やしょうよ……この洞窟にゃ主がいるとか--」
「--お前を探す間」
不意に前を歩いていたジョージが言った。
「二時間も走り続けた。二時間だ」
「だからすいやせんて--」
「ボラは使ってない。離れに置いてきた。この足で走って来たんだ。それなのに、私の体は息が切れる事も、心臓が早く脈打つことも、汗を滲ませる事もしなかった。出来ないからな。そういう有機的精密性は、この体には無い」
「……」
「息を切らせたかったんだ。苦しくて、辛い気分になりたかった。きっとそういう状態でこそ、見つけてやる意味があるのだと思った。汗を滴らせて、苦しい息で、お前を見つけて、……古いキネマ(映画)のようにな」
「そんな気持ちだったんですかい……」
その間、衝月と下らない事を話し込んでいたのが、少し気恥ずかしい。
オボコのように頬を染めて木陰に隠れてりゃ良かった。--ジョージが『やめてくれ』と言いそうな事を阿紫花は考え、つい強く手を握り返した。
ジョージが立ち止まった。
「この辺なら、入り口に人が立っても反響音でギリギリ感知できる」
「そうですかい?結構奥深くまで来ちまったようですけど」
水辺のすぐそばだ。清流、とまではいかないが、冷えた水の弾ける匂いがした。
「アシハナ」
水を見つめていた阿紫花は、手首を強く掴まれて目を見開いた。
水の音だ。
ちゃぷちゃぷじゃぶじゃぶ--、
いや、
「あ、あたし、あ、あ」
あたしの中の音か。
抱きかかえられ、向かい合って貫かれている。
「おかしいだろう。自分でもそう思うんだ」
ジョージは、軽々と阿紫花の体を良いように揺らし、
「欲望の必要などないはずの体だ。それは今でも変わらない。こうして君を抱いていても、肉体は性器以外はエレクトしない。息を切らしたり、腕が痛んだり、疲れたり、といった経時的疲労は存在しない。空腹も睡眠も、ほとんど訴えないはずの体なんだ」
「あ、ふあ、ジョ、ジさっ」
阿紫花は聞いていない。
急所を杭で深く穿たれて、重力などないかのように持ち上げられては自重で落とされる。持ち上げられ思わず締まったそこを、慣らしてぬるんでいるとはいえ、自分の重みでこじ開けられる。
グチャグチャと、泥のような水音が聞こえた。
「あああ、あ、ひッ」
「それなのにこうして、もう何度目かも分からないほど君に対して繰り返している。当たり前に疲労して動きをやめる事も出来ない」
「ジョージ、ジョージッ……」
「限界だと思ったさ。額のメッセージを見た時、探し出して捉まえて、ここに来てまだ一度もしていない事を、こうしてやろうと思った。逃げ出しても捉まえて、嫌がっても許してやらない、私がこんな体でも感じている欲望を、ここに」
「あ、ひあッ」
深く突き上げられ、阿紫花はしがみつく手に力を込めた。
「ブチまけてしまいたい。分からないんだ。この欲望は何だ。誤作動ではなさそうだとは分かる。おかしいだろう?ただの欲求では説明がつかない。これは--何だ」
「……」
持ち上げられ、ジョージの額より高い目線になった阿紫花の視界に。
『Je t'aime,Mais vous ne m'aimez.』
愛している、でも貴方は--。
もう消えたそのメッセージの痕跡が映った。
首を引き、そこへ何度もキスをした。
「もう消してしまった」
ジョージは言うが、阿紫花は微笑み、
「……たし、が、」
「……」
「こうしてェ、だけ……」
言葉などどうせ役に立たない。
「……」
急に再び深く打ち込まれ、阿紫花は暗い天井を仰いだ。
体に力が入らない。だがそれでも、繋がった部分だけは締め付けてしまう。
「ジョージ、もう、あたし……ッ、」
「その答えは、とても非合理だな。だが--」
気に入ったよ、と。
囁かれた瞬間。
「イクッ、出る、出ちまい、やがっ……!」
触れていないはずのそこから迸った液体が、体を反らした阿紫花の胸に飛んだ。
「ヒッ、やめ、やめてくんッ、」
迸らせる間にも、射精を促すように内部でそれがあばれ回っている。
射精の時間が長ければ長いほど、快楽の時間も延びる。
快楽に意識を飛ばしかけ、阿紫花はしがみついた。
「イクッ、また、イッ、か、堪忍、堪忍してッ……」
「出来ると思うか?私はまだ一発も満足していない」
「ひゃ、イヤだッやめ、ジョージ、ジョージッ、……」
目を潤ませ、気を飛ばしかける阿紫花の口に、ジョージはキスをした。
口内と下の急所を同時に激しくなぶられ、阿紫花は。
「……!」
自分の中に迸ったモノの存在を意識の片隅で認めながら気を失った。
※
「あはははは!英兄その顔~!やり返されてやんの」
夕飯前に戻ってきた長兄の顔を見て、れんげは大笑いだ。
「プッ、英兄自業自得」
百合は素直に笑って、「ジョージさんナイス」
「当たり前じゃ!人様のお顔になんて真似したんじゃお前は!それくらいで許してもらって、有難いと思わんか!」
養父も怒鳴り散らしているが、
「しかしお前、……面白い顔になったなあ。プクップププ」
「オヤジさん、そいつはあたしでも傷つきやすよ……」
阿紫花はへばっていた。
あの後、たっぷり時間をかけて弄繰り回され、大量に注がれて腰が抜けた。最後の方の記憶などすっかり飛んでいる。気がついたら夕焼け前の薄青い空の下を、ジョージに背負われていただけだ。後始末から着衣から、すべてジョージがやったのはいい。
問題は。
「頭痛ェや……こんな顔で痛がっても、笑えるだけでさ」
ジョージの落書きだ。チョビ髭やら眉間に皺やら、まあ阿紫花の描いた落書きよりはマシではある。
「晩御飯食べるの?英良。具合悪いなら、何か別なの作りましょうか」
菊はひやむぎの束を見せ、「今晩鰻なんだけど、ひやむぎとか作りましょうか?」
「鰻……」
「どうする?あ、お父さんお風呂もう使って下さい。風呂から上がったらお夕飯にしますから」
菊の言葉に、れんげと百合は立ち上がり、
「やった、鰻だ!」
「ねえ、櫃まぶし?お重?」
菊は肩をすくめ、
「お重よ。手伝ってよ。それと、平馬と勝にはナイショよ。貰い物なんだから」
「やった!平馬と勝ちん、今頃カレーかな」
「ねえ、おにぎりの具にしてさ、少し残してあげてたらどうかな……かわいそうだよ」
菊の答えに、れんげと百合ははしゃいで台所へ行ってしまった。
養母は既に台所だ。
ぐったりと寝転がる阿紫花の額に、ジョージが濡れタオルを載せてやっている。そんな光景が居心地悪かったのだろう、養父は咳払いをして立ち上がった。
「その、なんだ。風呂へな」
「へえへえ。ごゆっくり……」
「うむ」
養父は何だかイヤに四角張って風呂場へ消えた。
誰も居なくなってから、阿紫花はちらとジョージに目を遣り、
「あんた、鰻食うなよ」
「私の体に影響のある食品なのか?」
「……どっちかってえと、あんたよりあたしの体にかね……」
「?」
「ねえ、菊姉?」
百合が茄子の煮びたしを作りながら、
「朝、ジョージさんのオデコに、何か書いてたでしょ?あれってどういう意味だったの?」
「え?……」
「今見たら、英兄のオデコにも何か書いてたんだけど、英語じゃないんだもの。分かんない」
れんげが横から、
「英語だってそんなに分かんないじゃん。ねえ、茄子にししとうも入れようよ。美味しいかもよ」
「え~……ししとう?いい?お母さん。いい?--英語なら少しは分かるわよ。ねえ、菊姉。あれってどういう意味?分かるんでしょ?菊姉なら両方とも」
「……」
割烹着を着て、菊はお吸い物の味を確かめていたのだが。
「--ジョージに聞いたら?案外、答えてくれるかも知れないわよ。しつこく聞けばね」
ついさっき長兄の額に書かれていたメッセージには。
『Sie merken es nicht.』(君が気づかないだけだ)
英良がドイツ語までは知らないだろうと踏んで書いたのだろうか。それとも、何か意味があるのだろうか。
それは菊には分からないけれど。
「勝には教えるべきかしらね?……」
菊と勝が語学に達者な事を、ジョージに教えるのだけは、しばらくやめておこう。
そう心に決めて、菊は鍋に醤油を回してかけ入れた。
END
続きです。過去捏造や性的な描写に注意。
衝月×阿紫花ぽいですけど、ジョアシです。
終わらなかったので、分割します。中篇です。
衝月×阿紫花ぽいですけど、ジョアシです。
終わらなかったので、分割します。中篇です。
今は昔
白い雪が舞っている。
その中を、白装束の少年が舞っている。
いや、舞っているのではない--。
黒い人形を操っている。
白い手袋の先から伸びる糸が雪を切る。ヒュカッ、と、まるで弦楽器のような美しい音をさせ、糸が生き物のように有機的な放物線を描く。
黒い人形は刀を持っていた。それでひたすら壊しているのは。
白装束の人形だった。
舞うように少年は。
雪のように透明で、冷え切った眼差しで。
己の似姿を、黒い人形で打ち壊し続けた。
※
村の広場に駐車したトレーラーの横板が開いている。ほとんど丸見えの居住空間を少しも気にせず、仲町サーカスのメンバーは朝食を作っていた。
料理の上手いエレオノールを先導に、それぞれ役割分担をして動き回っている。
「黒賀村の人たち、おうちに鍵を掛けないンですっテ。驚きまシタ」
リーゼは器用にバーベキューコンロに火を起こし、「ウフフ、火の輪の要領デス」と密かに笑っている。
涼子は火の起こし方を見て覚えながら、
「泥棒とか、悪いことする人がいないのね、きっと」
「平和デスものネ。この村ハ……それに、他のおうちも丸見えデス」
リーゼの見た先にある一軒家は、確かに内部が丸見えだった。カーテンも開けっ放しで、隠したりもしない。部屋の中でテレビを見て寛ぐ主が見えた。リーゼの視線に気づくと、傍らの--おそらく娘だろう--乳幼児を抱き寄せて手を振って見せた。
「誰も気にしなイんですネ」
リーゼも手を振り返す。黒賀村はどこの家もこんな調子だ。
長い事外国のサーカスで過ごしていたリーゼには考えられないほど、穏やかな村だ。
涼子は不思議そうに、
「でも、人形を作る倉とか小屋に入ると、死ぬほど怒られるって、平馬が言ってたわ。人の家の人形小屋に入ると、人間が住んでる家に勝手に入るより怒られるんだって」
「まあ」
「変わった村だよね。……」
「そうデスねエ……あら?しろがねサン、お客様デス」
リーゼの声に、エレオノールはまな板から顔を上げ、
「どなたが-- ! 止まれ!」
ジョージだ。恐ろしく早く走って来る。勿論停止する。
まるで車やバイクが急停止する時の様に、ジョージの足元に砂煙が上がる。
「すごい……人間て、そんな速度で走れるんだ……」
涼子は目を丸くしている。もう少しで激突されていただろう危ない距離だ。しかしジョージの脚力に感心している。
しかしエレオノールは大声で、
「何を考えている!アナタがそんな速度で走ったら、人にぶつかった時にどうなるか分からないのか!アナタは何年しろがねをやっている!」
まるでギイのような口調だ。
「なんだなんだ」と、男どもがテントの方からこちらを伺っている。「ジョージじゃん」という鳴海の声が聞こえた。
「……ああ、すまない」
もし誰かと接触しそうになっても、しろがね-Oならば十分避けられる。しかしジョージは反論せず、
「アシハナを見なかったか」
「阿紫花?見ましたか?(と、リーゼや涼子に問う)--私も見ていない。男性陣もどうでしょう?私たちはずっとこの広場の中央にいたから、もし通りかかっていたら気づくと--顔、どうかしましたか?ジョージ」
「……分かるだろう。……」
「……阿紫花が、ですか……」
エレオノールは気の毒そうに、火の燃えるコンロを指差し、
「大丈夫。ジョージ。火ならあります」
涼子とリーゼが首をかしげる。
エレオノールはにこやかに、
「油性ですから、顔を火で焼いて炙って落とせばいいのです」
「心底恐ろしい女だな、君は」
「しろがねですから、それくらい出来ます」
鳴海との愛では基本的な行動原理は変化しなかったらしい。エレオノールの無茶振りに、人間である涼子とリーゼは引いている。
祖母さんそっくりだよ、君は、とジョージは声に出さず呟いて背を向ける。
「もしアシハナを見つけたら、連絡してくれ」
「はい。--どうか、人間の速度で走って下さいね」
それをお前が言うか。--さっきまで「火で顔を炙る」とか言っていたエレオノールを振り向かず、ジョージは去って行った。
※
当の阿紫花は。
「あ~あ……つまんねェ」
タバコを吹かしながら、田舎道を歩いていた。
悪戯をしたはいいが、ジョージは来ないし、綺麗な娘っ子もいやしない。目に映るのは竹薮と青い田畑、青空に青い山脈--。
離れていた時間が長すぎたのだろう。どれも鮮やかに見えて。
「……」
綺麗でやんの、と、阿紫花は思った。
木漏れ日が斑に陰を落とす。
「……そういや、この先は……」
『人形、一緒に作りやせんか』
そう言った少年の面影が、胸の奥にチラつく。
秋の木漏れ日の中、二人の少年が夕日の中を歩いていく。
『あたし裏方でいいって言ってンだけど、神社の息子が人形相撲出ねえのはおかしいって言われちまいやしてねえ。あたしも相撲の人形作らなにゃ……え?何言ってンでさ、衝さん。……いけねえよ、そんな馬鹿言っちゃあ……』
そうだ。確か、自分は少年に、
『人形をお前と作るのはいいんだけどな。……花嫁がお前なら、気張り甲斐あるんだけどな』
と、言ったのだ。
『ヤですよ、衝さん。あたしをからかっちゃ、怒りやすよ』
そう言って目を伏せた目元の、なんとなく淫猥な色が、思春期の男子中学生には目の毒だった。
『衝さんにゃ、女がいるじゃねえか。……』
伏せた目のまま、少年はそう、微笑った。
衝月は顔を上げた。
「誰かいやすかい?……」
がらりと小屋の戸が開いた。
「お前ェ……」
「あ、衝月」
阿紫花だ。「久しぶりじゃねえか。元気してたかよ?前に人形貰いに来て以来かあ?」
へへへ、と阿紫花は笑う。純粋に、旧友を見つけた顔で。
「……入るんなら、タバコ消せ。うちの人形小屋は火気厳禁だ」
「へえへえ。……タバコ、やめたんですかい」
阿紫花はタバコを落とし踏み消し、小屋の扉を後ろ手で閉めた。
「中坊の時ゃ、ここでよく吸ってやしたっけね。あたしら……」
ドクン、と、衝月の心臓が脈打った。
「英良、お前ェ……」
「ゴローって言いやしたっけ?あんたのガキ。台所で母ちゃんと飯食ってやしたよ」
阿紫花はへらへらと、
「あんたによく似たガキじゃねえか」
「……」
衝月はしばし阿紫花の顔を見つめて、
「……ヘッ……お前のトコの平馬も、お前ェに似てやがるよ」
「でしょうかねえ?血繋がってねえんだけどねえ。……あんたんトコのゴロー、うちの百合に夢中だって言うじゃねえか。東京者で垢抜けたトコがイイとか抜かしてるってよ。平馬から聞いたぜ。……親父のあんたそっくりだと思ってよ。……そういう余所者に弱ェトコ」
「ハン……」
別に--少年の時分に阿紫花と仲良くつるんでいたのは、阿紫花が「東京者で垢抜けた」少年だったからではない。
阿紫花は笑い、
「でも多分、嫁さんにすンのは村のアマっ子なんでしょうねえ。あんたの嫁さんみてえな、さ……気立てのいい、丈夫で可愛い心根のさ……。白くて柔らかくて、ふわふわした頬っぺたした……」
「……」
「思い出さねえかい、『衝さん』。あたしら、あのアマっ子取り合って、人形相撲で勝負したじゃねえか」
※
「日本のブレェクファストに付いて来る、この黒い紙はなんだい?ギイ」
「それは海苔という。海草を掻き集めてシート状に伸ばし乾燥させた健康食品だ。アナタにも味の記憶をがあるはずだが?」
「記憶と実際の舌は違うだろ、ギイ。白銀先生が美味しいと思っても、あたしは純粋なフランス人だからね。……なんかねえ。黒々して、いやらしいじゃないか。食べ物って気がしないよ」
好き勝手にフウは言い、テーブルの上の膳を見回す。
長の屋敷だ。秘密主義が当たり前で、観光客を寄せ付けない黒賀村には宿泊施設が無い。「黒賀村に手ごろな屋敷を買ってしまおうか?建てようか?」と言い出したフウを説得し、長に声を掛け、ギイは何とか長の屋敷に宿泊の許可を得た。
今二人の近くには誰もいない。与えられた広い和室は、車椅子でもいいように板間のままで、凝った造りの窓枠などが実に美しい。生けられた藤の花も、繊細で部屋に調和している。
しかし贅沢に慣れたフウは、黒檀のテーブルを戸惑い顔で見下ろしている。食事には手がつけられていない。
最近富みに我侭になって来た老人を、ギイはたしなめる。
「イギリスに長い事いたじゃないか、アナタは。あんな食事の不味い国で、百年以上生活できたなら日本は天国さ」
「あたしはどこにでもいたよ。アメリカにもロシアにも」
「どちらもさほど料理のうまい国じゃないじゃないか。ハンバーガ-とウォッカさえあればいいんだろ。……早く食べてくれ。駄菓子屋を手伝うと約束してある。僕を待つ美しい日本女性たちに、君が釈明してくれるのか?大体、どうして有機義体になった僕の方が早く食べ終わっているんだ」
食事などあまり必要ないのに、と、ギイはこぼす。
「ほっほっほ……あたしが新しく作った体は優秀だからね。苦労したよ。人間から遠く、ひたすら強い機械を作るなど、簡単なんだ。でも人間の感触や欲求を維持する有機体を作るのは骨が折れる。ジョージ君みたいに、ただ機械にするのは簡単なんだよ。ま、ジョージ君については少しだけ感覚機関や神経を人間に戻してあげているが、基本は機械のままだ」
器用にフウは箸で黒々とした煮豆を掴み弄ぶ。
「長年機械だったから、今更人間に戻るのもイヤだと。あの子はどうして不器用なのかねえ。なんでも出来るのに何も出来ない」
「器用なジョージなどこの世にいるかい?--それよりも、食べる必要も無いのに擬似脳神経が食欲を訴える、僕の脳の機構の意味は?どうせ太りも痩せもしない体で。……」
フウは煮豆を飲み込む。案外美味しかったようで、少し大きく目を開けた。
「人間を、作れるかと思ってね。……」
「……」
「人間を人間足らしめるものは、自己認識と身体欲求。自己認識はあたしには作れない。でも残った方なら、どうにか出来る。だからだよ。人間は不満や欲求を抱き続けなければ人間足り得ない。精神も肉体も、コンマ一秒ごとに変質していくものだから。変化し続ける肉体を持つ事。それが人間の本質の一部であると思うから、あえて、しろがねの強靭な欲求への耐性を殺した。当たり前の人間のように、飢え、乾き、眠り、老い、そして死ぬ。自己認識の更新と肉体の変質を受け入れ続ける事が人間の本質ならば、……今の君もやはり、人間なのさ」
チチチ、と窓の外で鳥が鳴いた。
老人は微笑み、
「前も言ったかな。人間の生命を、君は今度こそやり直す権利があると思うんだ。ギイ君。生き残ったからこそさ」
「……フン」
ギイは伏せていた目を微笑ませ、
「そうだな。ママンに抱きしめて貰うのは後何十年か先になったが、この世すべての女性に抱きしめてもらうのも悪くない。それに……」
ぎゅ、と、ギイは己の手を握る。
「オリンピアの一部も、この中にまだ生き続けている」
神経組織や素材を含め、オリンピアの手足を移植してある。組成の異なった有機素材に変質させてあるが、確かにオリンピアの手足だと、ギイは感じている。長年呼吸を合わせて戦ってきたギイには、分かるのだ。
「オリンピアがここにいるなら、ママンもここに生き続けているのに近いね。あの世の正二郎に嫉妬されるかな」
「ハハ……そっちはそっちでよろしくやっているさ。ギイ、君は、アンジェリーナに似ているよ。美しい子だった。美人は皆似るというがね」
フウの言葉に、ギイは苦笑した。
「フフ、ママンは美しい人だったよ。僕なんか彼女『ら』に比べれば--ん?」
どかどかどか、と重い足音が廊下から聞こえる。ジョージだ。音の重さでは鳴海に及ばないし、足捌きの長さも違う。これだけ広い歩幅で重い音となると、機械の体のジョージくらいしかいない。
朝の挨拶をしよう、とギイとフウは笑顔で扉が開くのを待つ。
開いた。
「やあ、おは--」
「アシハナは来ていないか?」
扉を開けて第一声がそれだった。ギイは眉をしかめる。ジョージはピアノという芸術を愛しているが、目の前のギイ・クリストフ・レッシュという神の造形美には微塵も興味を見せた事が無い。
幸いにギイは自分を「美しいが一番の魅力は実用的な人形遣いの腕前」と思っているので、ジョージの態度も長くは心に留め置かない。
微笑を返し、
「おはよう、ジョージ。アシハナは見ていないよ」
「そうか。--突然邪魔をしてすまない。おはよう、ギイ、フウ。アシハナが来たら教えてくれ」
「あ」
ジョージはさっさと背を向けて行ってしまう。
ギイは苦笑し、
「見たかい?あの顔。油性マジックだ。よくやるんだよ、子どもはそういう事を」
「自分たちの体にGPSが入っている事も忘れて……、あの子は本当に……不器用だねえ」
「自分と阿紫花の事に関しては、子どもより粗忽になれるな、ジョージは」
「L'amour est aveugle.(恋は盲目)……羨ましくないかね」
「Amantes, amentes.(愛する者に正気無し)とも言うね。愚かな愛は僕の望むものではない。」
ギイは微笑み、目を閉じた。
「でも、もう少し若ければそんな恋を、僕もしてみたかったなあ」
瞼の裏に浮かんだのは、百年前に見た、ある不器用な人形の眼差しだった。
ぎゅ、と。
ギイは拳を握り締めた。
※
「この小屋にあたしが忍び込んで来るとよ、あんたいつも、タバコと酒くれたっけな。人形作りしながら、ちまちま酒飲んでタバコ吹かして。……どっちからとも分からねえが、いつしか--体重ねてたっけな」
阿紫花は言う。何気ない口調だからこそ、それが衝月の耳朶を逆なでする。
「ま、尺って終わりってんじゃ、あんなの寝た内に入らねえや。--そいつ、ゴローの人形かい?」
「あ、ああ。……」
「ふうん」
阿紫花は下駄を脱いで上がってくる。人形に興味が出たのだろう。
座り込む衝月に体を寄せるようにして、まだ部分しか出来ていない人形の、外張りのない腕を見下ろす。
「ああ、あんたの人形にそっくりだ。頑固そうな作りしてら。基軸に遊びがねえから糸繰りに融通が利かねえ」
「おい……」
吐息が近い。薄いシャツ越しの熱を右腕に感じる。
しかし阿紫花は二人の距離など意に介さず、
「歯車の噛み合せじゃねえ、まずは組み合わせだって、教えてやったらどうだい。あ~あ、もったいねえ。意匠と発想に、人形作りの腕が追いついてねえのな。悪ィが平馬と坊やの人形の方が、人形としちゃ上だ。……懇切丁寧に教えてやるのかよ、どこ弄りゃ具合が良くなるのか」
「まさか。そんな事してちゃ、あいつのためにならねえ」
「だよな。あたしも前に平馬に同じ事したわ」
阿紫花はからりと笑い、
「手伝わねえで見守るだけがイイ事もあらあなあ。……」
「……お前ェ」
衝月は呟いた。
「あの時、なんで俺の人形の方を持っていった」
「へ?」
「二十年前、あの夜に」
『衝さんがしてえなら、……何しても構やしやせん。あたしも、何でもしやす。……ずっと、してきたじゃねえですか……』
白い寝巻きにどてらを着込んでいた。それが押し倒されて乱れて、白い太ももがあらわになっている。
『いつもより、深ェ事、して……』
そう囁くように言った顔が、電球の灯りの中でどれだけ--艶めいて見えたことか。『あたしを、……』
はあはあと荒い呼吸、太い鼻息が自分から漏れていると、衝月は悟った。まるで獣だ。
こいつ(阿紫花)は男を馬鹿にしちまう。おかしくしちまう。性質が悪い。
それまでは、互いにしゃぶったり、互いの一物同士を擦り合わせたりするだけだった。しかしその夜は、違った。ああ、間違いなく自分たちは一線を越えるのだ、という奇妙な確信があった。
阿紫花の目が、どこかでそれを強いている風ですらあった。
昼間、買い物帰りに今年の年娘に偶然出遭った。阿紫花や衝月と同級の少女。その娘を交えて一緒に帰ってから、どこかおかしかった。
『衝月君に、勝って欲しいな……』
前を歩いていた衝月と阿紫花の背後を歩いていたその娘が、そう呟いた。
自分に好意を持っているだろう娘の声に、衝月は硬派を気取ってしまった。振り向き、力強く言った。
『当たり前だ、俺が勝つ』
それから、阿紫花がおかしい。人形を作る手もどこか上の空で、--夜が更けたら自ら行為に誘う。いつもならそれは衝月からなのに。
--立ち上がりかけた己を晒したまま、足首を持ち上げられても阿紫花は見上げてくる。
『衝さん……』
色気のある顔だ--明るい場所で見てもそう思う時がある。細いがしっかりした柳眉に、睫毛の長い吊り目--。
若い黒賀の女どもの作る人形は、どんなに無骨なからくりを与えても、線が細く思えた。雄雄しく作ろうともどこかで女の目が覗く--そんな人形たち。
人形は作り手が透けて見える。作り手に似る。
阿紫花がもし人形なら、--作り手は女だろう。それも飛び切り、すこぶる付きの、極上の女。細い、人工的な朱の似合う女の--。
『衝月君に、勝って欲しいな』
どうしてだか、昼間の声が耳元で聞こえた。
『……衝さん?』
『お前ェが……』
そう呟いて、阿紫花を抱きしめた。
『女なら良かったのに』
『あたしが……』
『お前ェが花嫁なら、俺ァ……明日お前ェとやりあうなんざしなくて済むし、高校出りゃすぐによ、結婚でも何でもしてよ……英良ォ、お前ェが好きだ。好きだ。愛してる』
ギリリリリ、と。薄革が歯車に噛まれるような音がしたが、衝月は気が付かなかった。
『俺ァ……お前ェが』
『衝月』
その声に顔を上げると。
阿紫花は人形じみた顔で微笑んでいた。
唇に、何か紅いものが滲んでいる。
『もう何も言いなさんな』
人形じみた少年の腕が動き。
自分の頭上に振り下ろされる。何か黒い大きなものを握ったまま。
--瓶を脳天に食らい。
そこで衝月の意識は途切れた。
「気が付くと神事の朝だ。俺の作ってた人形が無ェ。代わりにお前の人形が置いてある。戸惑いながら神社に行ったら、--お前ェは俺の人形を、自作だって登録してやがった。俺の名前の欄にはお前ェの人形だ」
衝月は真剣な眼差しだ。
「お前ェは--強かったな。他の人形遣いの前で人形を操ってると嫌味になるってくらい上手かった。俺の人形も、らくらく、操って見せた」
「……お互いに作るの手伝ったじゃねえか。からくりが一緒なら自然と操りも似るってもんだろ。どっちがどっちの、なんて、小せェ事、今まで気にしてたのかよ」
阿紫花はへらへらと身を揺すりながら喋る。
しかし衝月は身じろぎせず、
「俺はお前の人形を、四苦八苦しながら操ってたのにか?俺の腕は、あの時からもうとっくにお前には適わねえモノだった」
「そんな、謙遜も過ぎちゃ嫌味だ」
「そのままテメエに返すぜ、英。--今でも思い出す」
--白装束の少年の傍らに、黒い人形が佇んでいる。
真冬の黒賀村。
雪が唸りを上げる。
その雪を挟んで、少年と向かい合い、黒装束の衝月が立っている。
傍らには、白い人形。
阿紫花によく似ていた。
「雪がやたら降ってた。まるでな、お前ェの周りだけ--」
桜吹雪が舞うようだった。
それはなんと冷たい花だろう。
「人形使いは黒装束、神事の関係者は白装束。お前ェはオヤジの言いつけ通りに白を着て出てきた。若いヤツで白を着てるのは、花嫁とお前ェだけだった。……口さがないヤツは言ってたぜ。どっちが花嫁だか分からねえ、いっそ息子の方でも悪くねえ、とよ」
「……ケッ、尻が痒くならあ。長老どもだろ?当時の。そんな事言うスケベジジイはよ--」
「全身白で、髪と眉と目だけ黒くて、……寒さで血の気を失ってる癖に、唇だけは赤かったな。だからだろ、そんな錯覚させたのは。ありゃ、テメエで噛んだんだろ。血が出るくらい、前の夜に、俺を殴る前に」
「……」
「なあ、英良。あの夜、何がお前を、傷つけた」
※
「なあ母ちゃん。あのヤクザと知り合いなのか?」
五郎は台所で、洗い物をする母親の後姿を眺めている。
「殺し屋じゃん。……」
五郎の目には、母は穏やかな人に見えた。厳しい父に付き従うだけの、穏やかで優しい、従順な母。
「同級生なのよ。そりゃモテたもんよ~?」
「え、母ちゃんが?」
「違う違う。あたしは地味で冴えないただの女の子だった。父ちゃんと、阿紫花君。二人ともね、すっごくかっこよかった。阿紫花君なんか、人当たりいいから、すぐ女の子に声かけてさ、友達になっちゃうの」
「人当たり……いいかあ?あのおっちゃん」
「う~ん、今はちょっと、柄が悪いけどね。昔は東京の言葉でも、丁寧に聞こえたなあ。職人さんみたいよね、あたし、って、女の子みたいに喋ってたけど、それ以外はケンカも強かったし、男の子だったかなあ」
阿紫花を、母親は褒めちぎる。それが多感な五郎には気に入らない。
「なんじゃい、母ちゃんも、阿紫花の兄ちゃんにホの字だったんかい」
「ホの字って……あんたも古い子ね~。……違うわよ。あたしは、父ちゃん一筋。阿紫花君の方よ、あたしにちょっかいかけてきたのは」
「え」
それも以外だ。派手なネクタイに長いコート、一目で分かるヤクザ者、という阿紫花の印象が強い。そんな阿紫花が、一目で田舎の主婦と分かる母に手を出すなど、考えられない。母はさほど美人ではない。
「こらこら、なんで『え』なのよ。中学の時よ。あれは確か……そうそう、阿紫花君が家出した人形相撲の夜よ」
※
「何も傷ついてなんかいやしねえよ、あたしは」
阿紫花は首をかしげる。おどけて誤魔化しているようにも、本気で思い出さないようにも見えた。
衝月は強く阿紫花の腕を掴んだ。
「嘘をつけ!お前ェ……」
「なんで怒ンでえ!……あ~、そういえばそんな事もあったっけな。ああ、はは、あたし、あんたの頭かち割ったんだっけ。あン時か」
阿紫花は苦笑し、
「懐かしいやね。あたしも、なんであんな事も糸が切れたのかねえ。若かったんだとしか、言いようがねえ。……あんたのおっ母さん、もう死んだんだって?」
「ああ。……」
「ご愁傷様。あたし、あの人に偉ぇ嫌われててよ。気づかなかったかい」
「何……」
衝月は耳を疑った。「何だそりゃ」
「あんたは父親を早くに亡くして、あのおっ母さんが女で一つ、嫁ぎ先でジジイババアの世話しながら育てられた、って」
「ああ」
「一人しかいねえ息子に、おかしな虫がついたら、そりゃ母親は追っ払うわ」
阿紫花はなんでもない口調だが、衝月は耳を疑う。
「馬鹿な。だって、おれのお袋は、お前が家に来たら毎回きちんと--」
「いいおっ母さんだったぜ。カルピスも濃いの作ってくれてよ、西瓜だ桃だって、切ってくれてよ。……でもよ、あたしも根性捻じ曲がったガキでさ、分かっちまうんだ。一瞬だけ」
『はい、英良君。……』
衝月の、いつもは笑顔の母親の目の奥が尖りきった刃物のように鋭い。
差し出されたジュースの味などしなかった。
「人形使ってりゃ、人間の体の動きにも敏感にならあ。--あのおっ母さん、あたしに近づく時ゃ、そりゃあ張り詰めた動きしてやしたぜ。筋肉が強張ってよ、神経が言う事利かねえくらいに、心の中であたしを睨みつけてる。……」
「そんな……」
「それだけじゃねえ。あんたのおっ母さんはマシな方だ。……あたしの人形繰りが気に入らねえと、陰口悪口だ。親父が助役じゃねえなら、もっと酷かったかもな。……余所者が、人形使うのは許せねえとさ。面と向かって言われたのは一回きり。それ以外は数え切れねえ。……」
初めて聞いた。だが分かる気がした。
阿紫花は目立った。際立っていた。
この村の秘密主義は、出る杭を打ち壊してしまわねば安心しない。表面上でしか村人と馴染めない阿紫花の、薄ら冷えた心が村の長老や人形遣いを不安にさせた。
衝月は目を伏せた。
「……悪かったよ。俺が、気づいてやれなかったから、お前は--俺に失望して、村を出たんだな。あの夜に、……」
「……」
阿紫花は、目を合わせずに床に向かって呟く衝月を見て、鼻で笑った。
「勘違いすんな、衝月。誰がテメエのために、村出るかよ。テメエがあたしにとってそんな大事だってか?あ?」
顔を上げ、こちらを見た衝月に、
「あたしが『女なら良かった』なんて抜かした腹の据わらねえクズの癖して。足広げて誘ったこっちに言う科白かよ、股ぐらにおっ立ったモノ見下ろして、それで『女なら』って……ほとほと呆れらあ。テメエのおっ立ったサオをあたしのケツにブッ刺す覚悟もねえ男だったって、早く分かって安心したくれえだ」
「英……」
まくし立て、阿紫花はつい熱くなった自分に気づき、ばつの悪い顔で衝月を見た。
喋りすぎたという顔だ。
衝月は口を開け、
「俺が……『女なら』って、言ったからか」
幾分かすっきりしたのだろう、阿紫花はへそを曲げた声で、
「……だから、あたしも若かったんだっての。すぐ頭に血が上ってよ。……だって、十分女の役をやってやっただろ。尺ってくれって言われりゃタマまでしゃぶってよ、……人形繰りも、あんたより弱い振りして、……」
でもダメだった、と、阿紫花は天井を見た。
「そんなの全然、あんたにゃ意味なかったんでェ。……あたしにも……」
意味無かった、と。
悲しそうな顔ではなかった。
ただ懐かしい顔で、阿紫花はそう言った。
NEXT⇒
白い雪が舞っている。
その中を、白装束の少年が舞っている。
いや、舞っているのではない--。
黒い人形を操っている。
白い手袋の先から伸びる糸が雪を切る。ヒュカッ、と、まるで弦楽器のような美しい音をさせ、糸が生き物のように有機的な放物線を描く。
黒い人形は刀を持っていた。それでひたすら壊しているのは。
白装束の人形だった。
舞うように少年は。
雪のように透明で、冷え切った眼差しで。
己の似姿を、黒い人形で打ち壊し続けた。
※
村の広場に駐車したトレーラーの横板が開いている。ほとんど丸見えの居住空間を少しも気にせず、仲町サーカスのメンバーは朝食を作っていた。
料理の上手いエレオノールを先導に、それぞれ役割分担をして動き回っている。
「黒賀村の人たち、おうちに鍵を掛けないンですっテ。驚きまシタ」
リーゼは器用にバーベキューコンロに火を起こし、「ウフフ、火の輪の要領デス」と密かに笑っている。
涼子は火の起こし方を見て覚えながら、
「泥棒とか、悪いことする人がいないのね、きっと」
「平和デスものネ。この村ハ……それに、他のおうちも丸見えデス」
リーゼの見た先にある一軒家は、確かに内部が丸見えだった。カーテンも開けっ放しで、隠したりもしない。部屋の中でテレビを見て寛ぐ主が見えた。リーゼの視線に気づくと、傍らの--おそらく娘だろう--乳幼児を抱き寄せて手を振って見せた。
「誰も気にしなイんですネ」
リーゼも手を振り返す。黒賀村はどこの家もこんな調子だ。
長い事外国のサーカスで過ごしていたリーゼには考えられないほど、穏やかな村だ。
涼子は不思議そうに、
「でも、人形を作る倉とか小屋に入ると、死ぬほど怒られるって、平馬が言ってたわ。人の家の人形小屋に入ると、人間が住んでる家に勝手に入るより怒られるんだって」
「まあ」
「変わった村だよね。……」
「そうデスねエ……あら?しろがねサン、お客様デス」
リーゼの声に、エレオノールはまな板から顔を上げ、
「どなたが-- ! 止まれ!」
ジョージだ。恐ろしく早く走って来る。勿論停止する。
まるで車やバイクが急停止する時の様に、ジョージの足元に砂煙が上がる。
「すごい……人間て、そんな速度で走れるんだ……」
涼子は目を丸くしている。もう少しで激突されていただろう危ない距離だ。しかしジョージの脚力に感心している。
しかしエレオノールは大声で、
「何を考えている!アナタがそんな速度で走ったら、人にぶつかった時にどうなるか分からないのか!アナタは何年しろがねをやっている!」
まるでギイのような口調だ。
「なんだなんだ」と、男どもがテントの方からこちらを伺っている。「ジョージじゃん」という鳴海の声が聞こえた。
「……ああ、すまない」
もし誰かと接触しそうになっても、しろがね-Oならば十分避けられる。しかしジョージは反論せず、
「アシハナを見なかったか」
「阿紫花?見ましたか?(と、リーゼや涼子に問う)--私も見ていない。男性陣もどうでしょう?私たちはずっとこの広場の中央にいたから、もし通りかかっていたら気づくと--顔、どうかしましたか?ジョージ」
「……分かるだろう。……」
「……阿紫花が、ですか……」
エレオノールは気の毒そうに、火の燃えるコンロを指差し、
「大丈夫。ジョージ。火ならあります」
涼子とリーゼが首をかしげる。
エレオノールはにこやかに、
「油性ですから、顔を火で焼いて炙って落とせばいいのです」
「心底恐ろしい女だな、君は」
「しろがねですから、それくらい出来ます」
鳴海との愛では基本的な行動原理は変化しなかったらしい。エレオノールの無茶振りに、人間である涼子とリーゼは引いている。
祖母さんそっくりだよ、君は、とジョージは声に出さず呟いて背を向ける。
「もしアシハナを見つけたら、連絡してくれ」
「はい。--どうか、人間の速度で走って下さいね」
それをお前が言うか。--さっきまで「火で顔を炙る」とか言っていたエレオノールを振り向かず、ジョージは去って行った。
※
当の阿紫花は。
「あ~あ……つまんねェ」
タバコを吹かしながら、田舎道を歩いていた。
悪戯をしたはいいが、ジョージは来ないし、綺麗な娘っ子もいやしない。目に映るのは竹薮と青い田畑、青空に青い山脈--。
離れていた時間が長すぎたのだろう。どれも鮮やかに見えて。
「……」
綺麗でやんの、と、阿紫花は思った。
木漏れ日が斑に陰を落とす。
「……そういや、この先は……」
『人形、一緒に作りやせんか』
そう言った少年の面影が、胸の奥にチラつく。
秋の木漏れ日の中、二人の少年が夕日の中を歩いていく。
『あたし裏方でいいって言ってンだけど、神社の息子が人形相撲出ねえのはおかしいって言われちまいやしてねえ。あたしも相撲の人形作らなにゃ……え?何言ってンでさ、衝さん。……いけねえよ、そんな馬鹿言っちゃあ……』
そうだ。確か、自分は少年に、
『人形をお前と作るのはいいんだけどな。……花嫁がお前なら、気張り甲斐あるんだけどな』
と、言ったのだ。
『ヤですよ、衝さん。あたしをからかっちゃ、怒りやすよ』
そう言って目を伏せた目元の、なんとなく淫猥な色が、思春期の男子中学生には目の毒だった。
『衝さんにゃ、女がいるじゃねえか。……』
伏せた目のまま、少年はそう、微笑った。
衝月は顔を上げた。
「誰かいやすかい?……」
がらりと小屋の戸が開いた。
「お前ェ……」
「あ、衝月」
阿紫花だ。「久しぶりじゃねえか。元気してたかよ?前に人形貰いに来て以来かあ?」
へへへ、と阿紫花は笑う。純粋に、旧友を見つけた顔で。
「……入るんなら、タバコ消せ。うちの人形小屋は火気厳禁だ」
「へえへえ。……タバコ、やめたんですかい」
阿紫花はタバコを落とし踏み消し、小屋の扉を後ろ手で閉めた。
「中坊の時ゃ、ここでよく吸ってやしたっけね。あたしら……」
ドクン、と、衝月の心臓が脈打った。
「英良、お前ェ……」
「ゴローって言いやしたっけ?あんたのガキ。台所で母ちゃんと飯食ってやしたよ」
阿紫花はへらへらと、
「あんたによく似たガキじゃねえか」
「……」
衝月はしばし阿紫花の顔を見つめて、
「……ヘッ……お前のトコの平馬も、お前ェに似てやがるよ」
「でしょうかねえ?血繋がってねえんだけどねえ。……あんたんトコのゴロー、うちの百合に夢中だって言うじゃねえか。東京者で垢抜けたトコがイイとか抜かしてるってよ。平馬から聞いたぜ。……親父のあんたそっくりだと思ってよ。……そういう余所者に弱ェトコ」
「ハン……」
別に--少年の時分に阿紫花と仲良くつるんでいたのは、阿紫花が「東京者で垢抜けた」少年だったからではない。
阿紫花は笑い、
「でも多分、嫁さんにすンのは村のアマっ子なんでしょうねえ。あんたの嫁さんみてえな、さ……気立てのいい、丈夫で可愛い心根のさ……。白くて柔らかくて、ふわふわした頬っぺたした……」
「……」
「思い出さねえかい、『衝さん』。あたしら、あのアマっ子取り合って、人形相撲で勝負したじゃねえか」
※
「日本のブレェクファストに付いて来る、この黒い紙はなんだい?ギイ」
「それは海苔という。海草を掻き集めてシート状に伸ばし乾燥させた健康食品だ。アナタにも味の記憶をがあるはずだが?」
「記憶と実際の舌は違うだろ、ギイ。白銀先生が美味しいと思っても、あたしは純粋なフランス人だからね。……なんかねえ。黒々して、いやらしいじゃないか。食べ物って気がしないよ」
好き勝手にフウは言い、テーブルの上の膳を見回す。
長の屋敷だ。秘密主義が当たり前で、観光客を寄せ付けない黒賀村には宿泊施設が無い。「黒賀村に手ごろな屋敷を買ってしまおうか?建てようか?」と言い出したフウを説得し、長に声を掛け、ギイは何とか長の屋敷に宿泊の許可を得た。
今二人の近くには誰もいない。与えられた広い和室は、車椅子でもいいように板間のままで、凝った造りの窓枠などが実に美しい。生けられた藤の花も、繊細で部屋に調和している。
しかし贅沢に慣れたフウは、黒檀のテーブルを戸惑い顔で見下ろしている。食事には手がつけられていない。
最近富みに我侭になって来た老人を、ギイはたしなめる。
「イギリスに長い事いたじゃないか、アナタは。あんな食事の不味い国で、百年以上生活できたなら日本は天国さ」
「あたしはどこにでもいたよ。アメリカにもロシアにも」
「どちらもさほど料理のうまい国じゃないじゃないか。ハンバーガ-とウォッカさえあればいいんだろ。……早く食べてくれ。駄菓子屋を手伝うと約束してある。僕を待つ美しい日本女性たちに、君が釈明してくれるのか?大体、どうして有機義体になった僕の方が早く食べ終わっているんだ」
食事などあまり必要ないのに、と、ギイはこぼす。
「ほっほっほ……あたしが新しく作った体は優秀だからね。苦労したよ。人間から遠く、ひたすら強い機械を作るなど、簡単なんだ。でも人間の感触や欲求を維持する有機体を作るのは骨が折れる。ジョージ君みたいに、ただ機械にするのは簡単なんだよ。ま、ジョージ君については少しだけ感覚機関や神経を人間に戻してあげているが、基本は機械のままだ」
器用にフウは箸で黒々とした煮豆を掴み弄ぶ。
「長年機械だったから、今更人間に戻るのもイヤだと。あの子はどうして不器用なのかねえ。なんでも出来るのに何も出来ない」
「器用なジョージなどこの世にいるかい?--それよりも、食べる必要も無いのに擬似脳神経が食欲を訴える、僕の脳の機構の意味は?どうせ太りも痩せもしない体で。……」
フウは煮豆を飲み込む。案外美味しかったようで、少し大きく目を開けた。
「人間を、作れるかと思ってね。……」
「……」
「人間を人間足らしめるものは、自己認識と身体欲求。自己認識はあたしには作れない。でも残った方なら、どうにか出来る。だからだよ。人間は不満や欲求を抱き続けなければ人間足り得ない。精神も肉体も、コンマ一秒ごとに変質していくものだから。変化し続ける肉体を持つ事。それが人間の本質の一部であると思うから、あえて、しろがねの強靭な欲求への耐性を殺した。当たり前の人間のように、飢え、乾き、眠り、老い、そして死ぬ。自己認識の更新と肉体の変質を受け入れ続ける事が人間の本質ならば、……今の君もやはり、人間なのさ」
チチチ、と窓の外で鳥が鳴いた。
老人は微笑み、
「前も言ったかな。人間の生命を、君は今度こそやり直す権利があると思うんだ。ギイ君。生き残ったからこそさ」
「……フン」
ギイは伏せていた目を微笑ませ、
「そうだな。ママンに抱きしめて貰うのは後何十年か先になったが、この世すべての女性に抱きしめてもらうのも悪くない。それに……」
ぎゅ、と、ギイは己の手を握る。
「オリンピアの一部も、この中にまだ生き続けている」
神経組織や素材を含め、オリンピアの手足を移植してある。組成の異なった有機素材に変質させてあるが、確かにオリンピアの手足だと、ギイは感じている。長年呼吸を合わせて戦ってきたギイには、分かるのだ。
「オリンピアがここにいるなら、ママンもここに生き続けているのに近いね。あの世の正二郎に嫉妬されるかな」
「ハハ……そっちはそっちでよろしくやっているさ。ギイ、君は、アンジェリーナに似ているよ。美しい子だった。美人は皆似るというがね」
フウの言葉に、ギイは苦笑した。
「フフ、ママンは美しい人だったよ。僕なんか彼女『ら』に比べれば--ん?」
どかどかどか、と重い足音が廊下から聞こえる。ジョージだ。音の重さでは鳴海に及ばないし、足捌きの長さも違う。これだけ広い歩幅で重い音となると、機械の体のジョージくらいしかいない。
朝の挨拶をしよう、とギイとフウは笑顔で扉が開くのを待つ。
開いた。
「やあ、おは--」
「アシハナは来ていないか?」
扉を開けて第一声がそれだった。ギイは眉をしかめる。ジョージはピアノという芸術を愛しているが、目の前のギイ・クリストフ・レッシュという神の造形美には微塵も興味を見せた事が無い。
幸いにギイは自分を「美しいが一番の魅力は実用的な人形遣いの腕前」と思っているので、ジョージの態度も長くは心に留め置かない。
微笑を返し、
「おはよう、ジョージ。アシハナは見ていないよ」
「そうか。--突然邪魔をしてすまない。おはよう、ギイ、フウ。アシハナが来たら教えてくれ」
「あ」
ジョージはさっさと背を向けて行ってしまう。
ギイは苦笑し、
「見たかい?あの顔。油性マジックだ。よくやるんだよ、子どもはそういう事を」
「自分たちの体にGPSが入っている事も忘れて……、あの子は本当に……不器用だねえ」
「自分と阿紫花の事に関しては、子どもより粗忽になれるな、ジョージは」
「L'amour est aveugle.(恋は盲目)……羨ましくないかね」
「Amantes, amentes.(愛する者に正気無し)とも言うね。愚かな愛は僕の望むものではない。」
ギイは微笑み、目を閉じた。
「でも、もう少し若ければそんな恋を、僕もしてみたかったなあ」
瞼の裏に浮かんだのは、百年前に見た、ある不器用な人形の眼差しだった。
ぎゅ、と。
ギイは拳を握り締めた。
※
「この小屋にあたしが忍び込んで来るとよ、あんたいつも、タバコと酒くれたっけな。人形作りしながら、ちまちま酒飲んでタバコ吹かして。……どっちからとも分からねえが、いつしか--体重ねてたっけな」
阿紫花は言う。何気ない口調だからこそ、それが衝月の耳朶を逆なでする。
「ま、尺って終わりってんじゃ、あんなの寝た内に入らねえや。--そいつ、ゴローの人形かい?」
「あ、ああ。……」
「ふうん」
阿紫花は下駄を脱いで上がってくる。人形に興味が出たのだろう。
座り込む衝月に体を寄せるようにして、まだ部分しか出来ていない人形の、外張りのない腕を見下ろす。
「ああ、あんたの人形にそっくりだ。頑固そうな作りしてら。基軸に遊びがねえから糸繰りに融通が利かねえ」
「おい……」
吐息が近い。薄いシャツ越しの熱を右腕に感じる。
しかし阿紫花は二人の距離など意に介さず、
「歯車の噛み合せじゃねえ、まずは組み合わせだって、教えてやったらどうだい。あ~あ、もったいねえ。意匠と発想に、人形作りの腕が追いついてねえのな。悪ィが平馬と坊やの人形の方が、人形としちゃ上だ。……懇切丁寧に教えてやるのかよ、どこ弄りゃ具合が良くなるのか」
「まさか。そんな事してちゃ、あいつのためにならねえ」
「だよな。あたしも前に平馬に同じ事したわ」
阿紫花はからりと笑い、
「手伝わねえで見守るだけがイイ事もあらあなあ。……」
「……お前ェ」
衝月は呟いた。
「あの時、なんで俺の人形の方を持っていった」
「へ?」
「二十年前、あの夜に」
『衝さんがしてえなら、……何しても構やしやせん。あたしも、何でもしやす。……ずっと、してきたじゃねえですか……』
白い寝巻きにどてらを着込んでいた。それが押し倒されて乱れて、白い太ももがあらわになっている。
『いつもより、深ェ事、して……』
そう囁くように言った顔が、電球の灯りの中でどれだけ--艶めいて見えたことか。『あたしを、……』
はあはあと荒い呼吸、太い鼻息が自分から漏れていると、衝月は悟った。まるで獣だ。
こいつ(阿紫花)は男を馬鹿にしちまう。おかしくしちまう。性質が悪い。
それまでは、互いにしゃぶったり、互いの一物同士を擦り合わせたりするだけだった。しかしその夜は、違った。ああ、間違いなく自分たちは一線を越えるのだ、という奇妙な確信があった。
阿紫花の目が、どこかでそれを強いている風ですらあった。
昼間、買い物帰りに今年の年娘に偶然出遭った。阿紫花や衝月と同級の少女。その娘を交えて一緒に帰ってから、どこかおかしかった。
『衝月君に、勝って欲しいな……』
前を歩いていた衝月と阿紫花の背後を歩いていたその娘が、そう呟いた。
自分に好意を持っているだろう娘の声に、衝月は硬派を気取ってしまった。振り向き、力強く言った。
『当たり前だ、俺が勝つ』
それから、阿紫花がおかしい。人形を作る手もどこか上の空で、--夜が更けたら自ら行為に誘う。いつもならそれは衝月からなのに。
--立ち上がりかけた己を晒したまま、足首を持ち上げられても阿紫花は見上げてくる。
『衝さん……』
色気のある顔だ--明るい場所で見てもそう思う時がある。細いがしっかりした柳眉に、睫毛の長い吊り目--。
若い黒賀の女どもの作る人形は、どんなに無骨なからくりを与えても、線が細く思えた。雄雄しく作ろうともどこかで女の目が覗く--そんな人形たち。
人形は作り手が透けて見える。作り手に似る。
阿紫花がもし人形なら、--作り手は女だろう。それも飛び切り、すこぶる付きの、極上の女。細い、人工的な朱の似合う女の--。
『衝月君に、勝って欲しいな』
どうしてだか、昼間の声が耳元で聞こえた。
『……衝さん?』
『お前ェが……』
そう呟いて、阿紫花を抱きしめた。
『女なら良かったのに』
『あたしが……』
『お前ェが花嫁なら、俺ァ……明日お前ェとやりあうなんざしなくて済むし、高校出りゃすぐによ、結婚でも何でもしてよ……英良ォ、お前ェが好きだ。好きだ。愛してる』
ギリリリリ、と。薄革が歯車に噛まれるような音がしたが、衝月は気が付かなかった。
『俺ァ……お前ェが』
『衝月』
その声に顔を上げると。
阿紫花は人形じみた顔で微笑んでいた。
唇に、何か紅いものが滲んでいる。
『もう何も言いなさんな』
人形じみた少年の腕が動き。
自分の頭上に振り下ろされる。何か黒い大きなものを握ったまま。
--瓶を脳天に食らい。
そこで衝月の意識は途切れた。
「気が付くと神事の朝だ。俺の作ってた人形が無ェ。代わりにお前の人形が置いてある。戸惑いながら神社に行ったら、--お前ェは俺の人形を、自作だって登録してやがった。俺の名前の欄にはお前ェの人形だ」
衝月は真剣な眼差しだ。
「お前ェは--強かったな。他の人形遣いの前で人形を操ってると嫌味になるってくらい上手かった。俺の人形も、らくらく、操って見せた」
「……お互いに作るの手伝ったじゃねえか。からくりが一緒なら自然と操りも似るってもんだろ。どっちがどっちの、なんて、小せェ事、今まで気にしてたのかよ」
阿紫花はへらへらと身を揺すりながら喋る。
しかし衝月は身じろぎせず、
「俺はお前の人形を、四苦八苦しながら操ってたのにか?俺の腕は、あの時からもうとっくにお前には適わねえモノだった」
「そんな、謙遜も過ぎちゃ嫌味だ」
「そのままテメエに返すぜ、英。--今でも思い出す」
--白装束の少年の傍らに、黒い人形が佇んでいる。
真冬の黒賀村。
雪が唸りを上げる。
その雪を挟んで、少年と向かい合い、黒装束の衝月が立っている。
傍らには、白い人形。
阿紫花によく似ていた。
「雪がやたら降ってた。まるでな、お前ェの周りだけ--」
桜吹雪が舞うようだった。
それはなんと冷たい花だろう。
「人形使いは黒装束、神事の関係者は白装束。お前ェはオヤジの言いつけ通りに白を着て出てきた。若いヤツで白を着てるのは、花嫁とお前ェだけだった。……口さがないヤツは言ってたぜ。どっちが花嫁だか分からねえ、いっそ息子の方でも悪くねえ、とよ」
「……ケッ、尻が痒くならあ。長老どもだろ?当時の。そんな事言うスケベジジイはよ--」
「全身白で、髪と眉と目だけ黒くて、……寒さで血の気を失ってる癖に、唇だけは赤かったな。だからだろ、そんな錯覚させたのは。ありゃ、テメエで噛んだんだろ。血が出るくらい、前の夜に、俺を殴る前に」
「……」
「なあ、英良。あの夜、何がお前を、傷つけた」
※
「なあ母ちゃん。あのヤクザと知り合いなのか?」
五郎は台所で、洗い物をする母親の後姿を眺めている。
「殺し屋じゃん。……」
五郎の目には、母は穏やかな人に見えた。厳しい父に付き従うだけの、穏やかで優しい、従順な母。
「同級生なのよ。そりゃモテたもんよ~?」
「え、母ちゃんが?」
「違う違う。あたしは地味で冴えないただの女の子だった。父ちゃんと、阿紫花君。二人ともね、すっごくかっこよかった。阿紫花君なんか、人当たりいいから、すぐ女の子に声かけてさ、友達になっちゃうの」
「人当たり……いいかあ?あのおっちゃん」
「う~ん、今はちょっと、柄が悪いけどね。昔は東京の言葉でも、丁寧に聞こえたなあ。職人さんみたいよね、あたし、って、女の子みたいに喋ってたけど、それ以外はケンカも強かったし、男の子だったかなあ」
阿紫花を、母親は褒めちぎる。それが多感な五郎には気に入らない。
「なんじゃい、母ちゃんも、阿紫花の兄ちゃんにホの字だったんかい」
「ホの字って……あんたも古い子ね~。……違うわよ。あたしは、父ちゃん一筋。阿紫花君の方よ、あたしにちょっかいかけてきたのは」
「え」
それも以外だ。派手なネクタイに長いコート、一目で分かるヤクザ者、という阿紫花の印象が強い。そんな阿紫花が、一目で田舎の主婦と分かる母に手を出すなど、考えられない。母はさほど美人ではない。
「こらこら、なんで『え』なのよ。中学の時よ。あれは確か……そうそう、阿紫花君が家出した人形相撲の夜よ」
※
「何も傷ついてなんかいやしねえよ、あたしは」
阿紫花は首をかしげる。おどけて誤魔化しているようにも、本気で思い出さないようにも見えた。
衝月は強く阿紫花の腕を掴んだ。
「嘘をつけ!お前ェ……」
「なんで怒ンでえ!……あ~、そういえばそんな事もあったっけな。ああ、はは、あたし、あんたの頭かち割ったんだっけ。あン時か」
阿紫花は苦笑し、
「懐かしいやね。あたしも、なんであんな事も糸が切れたのかねえ。若かったんだとしか、言いようがねえ。……あんたのおっ母さん、もう死んだんだって?」
「ああ。……」
「ご愁傷様。あたし、あの人に偉ぇ嫌われててよ。気づかなかったかい」
「何……」
衝月は耳を疑った。「何だそりゃ」
「あんたは父親を早くに亡くして、あのおっ母さんが女で一つ、嫁ぎ先でジジイババアの世話しながら育てられた、って」
「ああ」
「一人しかいねえ息子に、おかしな虫がついたら、そりゃ母親は追っ払うわ」
阿紫花はなんでもない口調だが、衝月は耳を疑う。
「馬鹿な。だって、おれのお袋は、お前が家に来たら毎回きちんと--」
「いいおっ母さんだったぜ。カルピスも濃いの作ってくれてよ、西瓜だ桃だって、切ってくれてよ。……でもよ、あたしも根性捻じ曲がったガキでさ、分かっちまうんだ。一瞬だけ」
『はい、英良君。……』
衝月の、いつもは笑顔の母親の目の奥が尖りきった刃物のように鋭い。
差し出されたジュースの味などしなかった。
「人形使ってりゃ、人間の体の動きにも敏感にならあ。--あのおっ母さん、あたしに近づく時ゃ、そりゃあ張り詰めた動きしてやしたぜ。筋肉が強張ってよ、神経が言う事利かねえくらいに、心の中であたしを睨みつけてる。……」
「そんな……」
「それだけじゃねえ。あんたのおっ母さんはマシな方だ。……あたしの人形繰りが気に入らねえと、陰口悪口だ。親父が助役じゃねえなら、もっと酷かったかもな。……余所者が、人形使うのは許せねえとさ。面と向かって言われたのは一回きり。それ以外は数え切れねえ。……」
初めて聞いた。だが分かる気がした。
阿紫花は目立った。際立っていた。
この村の秘密主義は、出る杭を打ち壊してしまわねば安心しない。表面上でしか村人と馴染めない阿紫花の、薄ら冷えた心が村の長老や人形遣いを不安にさせた。
衝月は目を伏せた。
「……悪かったよ。俺が、気づいてやれなかったから、お前は--俺に失望して、村を出たんだな。あの夜に、……」
「……」
阿紫花は、目を合わせずに床に向かって呟く衝月を見て、鼻で笑った。
「勘違いすんな、衝月。誰がテメエのために、村出るかよ。テメエがあたしにとってそんな大事だってか?あ?」
顔を上げ、こちらを見た衝月に、
「あたしが『女なら良かった』なんて抜かした腹の据わらねえクズの癖して。足広げて誘ったこっちに言う科白かよ、股ぐらにおっ立ったモノ見下ろして、それで『女なら』って……ほとほと呆れらあ。テメエのおっ立ったサオをあたしのケツにブッ刺す覚悟もねえ男だったって、早く分かって安心したくれえだ」
「英……」
まくし立て、阿紫花はつい熱くなった自分に気づき、ばつの悪い顔で衝月を見た。
喋りすぎたという顔だ。
衝月は口を開け、
「俺が……『女なら』って、言ったからか」
幾分かすっきりしたのだろう、阿紫花はへそを曲げた声で、
「……だから、あたしも若かったんだっての。すぐ頭に血が上ってよ。……だって、十分女の役をやってやっただろ。尺ってくれって言われりゃタマまでしゃぶってよ、……人形繰りも、あんたより弱い振りして、……」
でもダメだった、と、阿紫花は天井を見た。
「そんなの全然、あんたにゃ意味なかったんでェ。……あたしにも……」
意味無かった、と。
悲しそうな顔ではなかった。
ただ懐かしい顔で、阿紫花はそう言った。
NEXT⇒
阿紫花とジョージ生き残りパラレル。
宇宙後半年くらい?勝と仲町サーカスも黒賀村へ来ている夏休み、の設定。
ジョアシですが衝月×阿紫花ぽいです。
阿紫花の過去捏造なので、苦手な方は注意。
BGM : 椿/屋四/重奏
後半は後ほど……。
宇宙後半年くらい?勝と仲町サーカスも黒賀村へ来ている夏休み、の設定。
ジョアシですが衝月×阿紫花ぽいです。
阿紫花の過去捏造なので、苦手な方は注意。
BGM : 椿/屋四/重奏
後半は後ほど……。
今は昔
薄暗がりである。
月の灯りに蚊帳が影を落とす中、布団の上を男が二人寝転んでいる。
「いいじゃねえかよ……」
阿紫花だ。寝転がったまま、ジョージの髪を弄っている。
「今夜こそ、よぅ……」
「ダメだ。やめろ」
にべもなく、髪に絡む阿紫花の手ごと要求をはねのけたジョージは、ごろりと背を向けてしまう。
その背に抱きつき、阿紫花は頬を押し付ける。
「折角、離れに寝泊りしてんですぜ?二人きりじゃねえか。誰も来やしやせんってば」
「お前は昨日も同じ事を言った。だがそう言って、昨日はヘイマが布団に潜り込んで来たじゃないか。私とお前の間で熟睡して、朝まで動かなかったのは誰の弟だ」
「大丈夫でさ。勝坊ちゃんにお願いしやしたから。今晩は平馬を見張ってくれるって」
「お前……!」
ジョージは寝返りを打って阿紫花を見た。銀色の目が三角になっている。
「何を言った!あんな子どもに、何をどう頼んだと言うんだ!」
「二人きりになりてえから、平馬が来ねえように一緒に寝てくれって--」
「そんな--ふしだらな!」
「はあ?」
「夜に二人きりにしろ、と子どもに頼むなど、教育上よくないだろうが!」
ジョージの怒声に、阿紫花は耳を疑う。
「何言ってんでえ、アンタ。今時のガキは、察しがいいもんですぜ。それに坊やは、しろがねだった祖父さんの記憶もあるんだ。大人の夜の事情も分かってまさ。流石に赤い顔してやしたけどね。賢い坊やでさ。空気読んで頷いてくれやしたぜ」
「アシハナ!!」
ジョージは起き上がり、声を張り上げる。
「あんな子どもに、性的な行為を示唆させるような真似はするな!しろがねの記憶があろうがなかろうが、子どもは子どもだ!賢かろうがなんだろうが、子どもは子どもとして扱え!」
「な、何怒って--」
「子どもらしい時間を奪われた子どもがどうなるか、お前には分からないのか!」
怒鳴られた阿紫花は、一瞬目を丸くした。しかしすぐに起き上がり、目を吊り上げ、
「何小難しい事言ってんでえ。こっちだって何も好き好んで坊やにこんな惨めな頼み事してんじゃねえ!どっかの銀目のカタブツが『実家にいる間はそういう事はしないようにしたい』とか訳分かンねえ事言い出したから、あたしがわざわざ離れに用意してもらったりなんだり--」
「いくら離れでも、隣には子ども--しかも女の子ばかりいるんだぞ!?彼女らの年頃の多感な時期に、悪影響だ。ただでさえ私たちは--男同士なのに」
その言葉に。
阿紫花は本当に、失望したような顔をした。
ジョージは再び横になった。そして背を向ける。
「寝よう。……」
「……」
答えは無かった。阿紫花は立ち上がり、そっと出て行く。
ジョージは追わなかった。
(アシハナ、馬鹿なヤツ。へらへらした生き方をしているからだ)
きっと阿紫花が思うより、子どもはもっと、傷つきやすくて壊れやすい。
『お前は機械だ。ジョージ。お前は--メトロノームだ』
耳に記憶が蘇り、ジョージは枕を握り締めた。
(以前の私はもっと、冷たかった。どんなに子どもが死んでも何も感じなかった)
いや、感じない『振り』が出来た。
今は出来ない。
(アシハナの弟や妹もまだ子どもだ。……アシハナめ。もっと考えろ。無責任男め)
そんな事を考えながら、ジョージは目を閉じた。
起きて阿紫花を待っている気にはならなかった。すぐに眠った。
「ジョージがあたしに冷てェんだよチキショウ~……」
傷心の阿紫花のもぐりこんだ先は。
「どうせ英良が悪いんじゃなくて?」
「じゃないの?どんなケンカだか知らないけど」
「でもジョージさん、英兄の保護者みたいで大変ね~」
菊、れんげ、百合は涼しい部屋に集まって寝ていた。何故か、灯りの無い部屋の中でも華やかに感じられる空気だった。無理も無い。阿紫花家の娘たちは美しい。
阿紫花はそんな娘っ子らの枕元に、布団も無いのに寝転がっている。まさか一緒に布団に入るわけにはいかない。
平馬と勝は、扇風機のある養父母の部屋だ。すでに寝ているだろう。
「保護者なら保護者らしく優しくしろってんだ。馬鹿ジョージ。……」
阿紫花は恨めしそうに娘たちを見る。
「あんたらに気を遣ってあたしらがセックス出来ないのが原因だ」などとは、まさか言えない。田舎の女子高生・女子中学生に過ぎない彼女らにする話ではない。その辺はさすがに阿紫花にも分かる。百合のオボコ顔など、見ているだけで癒されるが、その手の話を振っても理解しない雰囲気がある。
ジョージのように神経質なのは嫌いだ。だがさすがに、
(……やっぱ、ちっとは正しいんですかね。ジョージの言い分も……)
自分の子どもの頃は--と、薄苦い記憶を思い出し眉をしかめた阿紫花の顔を、れんげが覗き込んでくる。
「どったの。英兄」
「なんでもねえ」
「そういえばさあ、--英兄が女役なんだよね?」
「ブッ」
阿紫花は盛大に噴出した。
れんげはさも当たり前のように、
「ジョージちん、優しい?丁寧?」
「黙れこのアマ。お前ェ、菊はともかく百合が--」
そう言って阿紫花が百合を見ると。
百合は変にきらきらした目をしている。
「ゆ、百合?」
「こ、こないだね!」
百合は早口に、「クラスの子に、男の子同士が恋に落ちる小説借りちゃって!そ、それで、信じられなくて、ジョ、ジョージさん来たら、英兄とどんな風に恋に落ちたのか聞こうかと--」
「だから、そういう小説は架空のモノだって言ってるじゃないの」
菊だ。「ジョージになんて説明するのよ。日本の女の子が馬鹿だと思われちゃうわよ。大体おかしいのよ、美少年同士が、まるで男女の仲のように当たり前にセックスしてる内容なんて。現実味がないわ」
「キャッ、やめてよもう!愛し合う形は自由だってれんげ姉だって言ってたじゃない!」
話を振られたれんげは首をかしげ、
「そりゃそうだけど。痛いよ~?初体験って。女の子だって痛いのにさあ、男の子だと、アレじゃん、使う場所ってアレじゃん。小説みたいな展開、あるはずないよ。痛いって。ねえ?兄貴」
「……」
三十路に突入し半ば過ぎ。そんな自身の年齢を思い出し、阿紫花は無言で顔を押さえた。
最近の若い娘らの趣味はどうなっているだろう。
「……いや、あたしの若い頃にもそういうのありやしたわ……加納が読んでた」
「そうなんだ。へ~……」
百合は感心した様子で、「いつの時代にもいるんだ、ボーイズラブ好きな女の子」
「それよりさあ、英兄!やっぱ兄貴、女役なの?」
「どうなの?英良」
「答えて!気になって仕方ないの~!」
娘らの猛攻に阿紫花は。
「……ジョージと相談して教えやすよ……」
立ち上がり、開いた襖から飛び出してひとまず逃げ出した。
「……と、百合!油性ペンねえか?」
「え~?冷蔵庫に箱取り付けてあるでしょ。その中。食べ物のパックとかに書いておく用のでいいの?」
「そうかい、ありがとよ」
すぐ返してよ~?、という百合の声を背に、阿紫花は出て行った。
翌朝。
「おはよう、みんな」
「はよ~」
勝と平馬は台所にやってきた。
「おはよう。よく寝た?」
エプロンを着けて味噌汁を配っている百合が笑いかけてくれた。
勝は微笑み返し、
「うん。手伝うよ。おじさんとおばさんの部屋は涼しかったけど、そっちはどうだった?」
「ありがとう。これ運んでくれる?こっちも涼しかったわよ。やっぱりあそこの部屋がいいのよね」
「そうみたいだね」
勝も慣れた様子で味噌汁椀を配っていく。阿紫花家の両親、三姉妹と平馬はすでに揃っている。
(……朝寝坊かな。阿紫花さんたち……)
僕にあんな事を頼むなんて、阿紫花さん相当溜まってるんだろうなあ。
子どもの癖に勝は余計な詮索をしてしまう。多少患者を診る医者のような心理が入っているのは、祖父のせいだろう。
(大人って大変だなあ……)
余計なお世話、と当の大人たちが言いそうな事を勝は考えている。
そんな勝をよそに、百合はおたまを使いながら、
「サーカスの人たちも眠れたかな?広場って暑いのかしらね?そうだ、英兄たち、暑くなかったかしら。--マジック……あら、戻ってない」
百合は冷蔵庫の側面に磁石で引っ付いている箱を見る。数本の色々なペンやメモが入っている。
「どうしたの?」
「あのね、昨日英兄が部屋にやって来て--ペン、を……借……」
「?」
百合が何かに気づいたように、廊下へ続く暖簾を見つめている。
全員がそれを見た。
「おはよう」
ジョージの声が暖簾の向こうでした。
鴨居で頭を打たないように、身をかがめて台所へ入ってくる。
黒い長袖と長ズボンという姿だが、いつものコート姿に比べれば大分ラフだ。サングラスも外している。
いや大事なのはそこではなくて。
「アシハナ--エイリョウを知らないか?朝から姿が見えなくて」
「ジョージちん、顔……洗った?」
「? 外の水道で……あの水道は使ってはいけなかったのか?」
「……英良がいないのも、当然、よ……」
クッ、と、菊の咽喉の奥がなる。堪えている。
「……プッ」
連鎖反応だ。れんげは笑いを堪える。勝は目を反らし顔を赤らめているし、阿紫花の両親は笑い出したいが出来ない、という顔だ。
「……ぎゃはははははははははははッ」
とうとう平馬は大笑いだ。
勝は笑いを堪えながら、
「平馬ッ悪いよ!」
「だ、だって!ジョ、ジョージ、あのマジメ腐った顔で、それ、あはははははははッ!」
百合だけは気の毒そうに、棚にあった小さな鏡を差し出して見せてくれた。
「英兄を、あんまり怒らないでね……?」
「!!」
黒いマジックペンで、ヒゲらしきものが書いてある。その上、極太の眉毛や派手な睫毛、ほっぺのくるくるマーク、……その他にホクロや落書き少々。
宴会芸ですらないだろう己の顔に、ジョージはがっくりと頭を垂れた。
「なんだこれは……」
「油性ペンだよね、これ……英兄、ひどい事して、もう……」
百合は困った顔でジョージに「ごめんね」と言ってくれる。
菊は立ち上がり、努めて冷静に、
「ちょっと待ってらして。化粧落とし、持って来るわ」
「化粧落とし?」
何故かジョージではなく、父親が声を荒げた。
「こらお前、化粧なんぞしとるのか!?」
「はい。時々」
冷静な菊に、養父は泣きそうな顔になり、
「ど、どうして!」
「この先私が大学生や社会人になるに当たり、知っておいた方が良いと、お母さんに買って頂きました」
「え?そうなのか?」
養母は頷き、
「いやだわ、お父さん。あたしたちの若い頃なんか、学校でお化粧の授業があったんですよ。社会人になる女子高生のために」
「そうだったのか!?知らんかった。……でも早くないか?高校生で……ううむ……」
「本当にたまのお休みに、軽く、薄化粧ですわ。菊も弁えてますよ。ねえ?それに、綺麗ですよ、菊のおめかしした顔……。れんげや百合も、その内に買ってあげますからね」
はーい、とれんげと百合は素直に声を上げるが、菊は冷静だ。
「それより、今はジョージに化粧落としを……」
「あ、そうだったわ。行って来て」
放置されたジョージの落ち込みようが、半端ない。椅子に腰を下ろし、俯いて黒い影を背負っている。
「ジョ、ジョージさん、すぐ落ちるわよ」
「そ、そうだよ。洗えば落ちるよ」
なんとか百合と勝が励ます隣で、れんげと平馬は無責任に、
「あはは。ジョージちん、似合ってるよ。カワイイカワイイ。あれ、おでこに何か……英語かな?書いてる」
「ぷっ、ぷくく。ジョージィ、お前ェ、英兄におもちゃにされてんのかよ。オデコ広いからメモ代わりか?」
大変なのは両親だ。
「平馬ッ!お前まで人を傷つけるような事を言うな!すまんなあ、ジョージさんや。うちの馬鹿息子に……」
「ホント、ごめんなさいね」
「まったくあいつはいくつになっても馬鹿ばっかりして……」
ホントですね、と言い出す事も出来ない。ジョージはひたすら項垂れて顔を隠している。
化粧落としのクレンジングオイルを片手に、菊がジョージを呼ぶ。
「ジョージ、こっちへ来て頂戴。一緒に洗面所で洗い流しましょう。みんなは先に食べてて頂戴。お味噌汁が冷めてしまうわ。あ、勝は一緒に来て」
「オイルだけじゃ落ちない時って、何が効くかしら」
洗面所に連れられ、顔を洗うジョージの背後で、菊と勝は小声で相談し始めた。
「君だったら、効果的な方法を思いつくか、知っているかしないかと思って」
「う~ん……。リモネンとか油と分子の大きさが似てるし、落ちるって聞いた事あるけど」
「リモネンは、今使っている化粧落としにもう入ってるわ。……やっぱり、あんまり落ちなかったわね」
菊は鏡の中のジョージを見上げる。
「ジョージ、もう一回洗いましょうか?」
「……キク、du dissolvant vernisはあるか」
「え?フランス語?」
「……私は今経験した事がない種類の動揺している。日本語がとっさに出てこない。爪の色を落とす、薬品だ」
「あ、あるわよ。除光液、リムーバーね。まさかそれで……お肌痛むわよ」
ハン、と鏡の中のジョージが哂う。
「例え身体中の皮膚が剥がれても、私はすぐに再生する。持ってきてくれ」
「え、ええ……」
自動人形やしろがねの事を、ある程度理解している菊は頷いた。
--そして除光液で顔を洗ってすぐに。
ジョージは台所に現れた。
大部分が消えたとはいえ、うっすら油性マジックの痕の残る顔のまま。
「--どうもありがとう、心配してくれて」
阿紫花家の面々に、ジョージはわざとらしいほどの笑顔で、
「礼節と謝罪を向けてくれたお二人(養父母)と、慰めてくれた二人(百合と勝)、建設的な助けになってくれた一人(菊)と、……」
怖いくらい不自然な笑顔で、れんげと平馬の肩を押さえ、
「この怒りを煮えたぎらせてくれた君たちに感謝する。……エイリョウをこらしめてくる」
う、と気圧されされた二人は口々に、
「ジョージちん、目が笑ってない」
「怖ェ~……ジョージってホントに昔子ども相手の仕事してたの?」
平馬の言葉に、フ、とジョージは微笑った。作り笑いではない。
「してたさ。……」
サングラスをして、ジョージは出て行った。朝食を食べ始めていない菊と勝が見送りに出て行った。
全員、食事の進みがいつもより遅い。しかし父親は心から悪いと感じているらしく、速度を速める事も出来ずにいる。
「こまったもんだ。英良にも」
「ええ本当。……」
「なんだ、母さん」
「いえ……」
母親はかすかに笑って、
「英良が、悪戯ですって……」
「……」
平馬とれんげと百合が、食べる手を止める。
それに気づいた母親は微笑んだまま、
「私たちには、一度もそんな事しなかった……」
「この間の世界陸上で、百メートル世界新記録が出たようだけど、軽く越えたわね。……プッ。笑っちゃう……」
走り去るジョージの背を見つめ、玄関先で菊が笑う。マジックで落書きされたジョージの顔を思い出したのだ。
勝も微笑みながら、
「多分フルマラソンくらいの距離なら、あの速さで走れると思うよ。ジョージさんなら。ううん、一日ずっと走っても平気かな」
そういう風に作られている。機構を知っている勝は苦笑する。
「ホントウ?それって、『しろがね』の血のため?」
「(どこまで説明していいものかな)そんな感じ。機械の部分もあるし……」
「……血、ね……。では君も、あれくらい早く走ったり出来る?飲んでるんでしょ?長生きしたりとか、出来そう?」
「僕は……」
ミン、とひっきりなしに蝉が鳴いている。
勝は笑った。
「出来ないよ。そうだなあ、三日くらい徹夜しても平気なくらいにはなってるかも知れないけどね。本物のしろがねや、ジョージさんみたいに一週間も二週間も起きて動き続けるなんて出来ないよ。しろがねの血を飲んだって、しろがねにはならないよ。少し丈夫になるだけ。少し健康になるだけ。……僕は菊さんと同じに、歳を取るよ。黒賀村のみんなも、阿紫花さんも」
「三日の徹夜なら、私も出来ますわ」
クス、と菊は笑った。
「なあんだ。そうなんだわ。……てっきり私は……」
「……?」
「英良も『そうなってしまった』から、……長生きする事になったから、時間を持て余して仕方なくジョージと一緒にいるのだと思っていたわ」
「……」
「違うのね。……」
ミンミンミン、と。蝉が鳴いている。
ジョージの額の隅にフランス語で。
『Je t'aime,Mais vous ne m'aimez.(貴方を愛している。でも貴方は愛してくれない)』
そう書いてあった。
菊は仕方なさそうに微笑んだ。
「……私だってフランス語くらい読めますのにね」
「……僕も」
くす。
二人は顔を見合わせて、笑った。
NEXT⇒
薄暗がりである。
月の灯りに蚊帳が影を落とす中、布団の上を男が二人寝転んでいる。
「いいじゃねえかよ……」
阿紫花だ。寝転がったまま、ジョージの髪を弄っている。
「今夜こそ、よぅ……」
「ダメだ。やめろ」
にべもなく、髪に絡む阿紫花の手ごと要求をはねのけたジョージは、ごろりと背を向けてしまう。
その背に抱きつき、阿紫花は頬を押し付ける。
「折角、離れに寝泊りしてんですぜ?二人きりじゃねえか。誰も来やしやせんってば」
「お前は昨日も同じ事を言った。だがそう言って、昨日はヘイマが布団に潜り込んで来たじゃないか。私とお前の間で熟睡して、朝まで動かなかったのは誰の弟だ」
「大丈夫でさ。勝坊ちゃんにお願いしやしたから。今晩は平馬を見張ってくれるって」
「お前……!」
ジョージは寝返りを打って阿紫花を見た。銀色の目が三角になっている。
「何を言った!あんな子どもに、何をどう頼んだと言うんだ!」
「二人きりになりてえから、平馬が来ねえように一緒に寝てくれって--」
「そんな--ふしだらな!」
「はあ?」
「夜に二人きりにしろ、と子どもに頼むなど、教育上よくないだろうが!」
ジョージの怒声に、阿紫花は耳を疑う。
「何言ってんでえ、アンタ。今時のガキは、察しがいいもんですぜ。それに坊やは、しろがねだった祖父さんの記憶もあるんだ。大人の夜の事情も分かってまさ。流石に赤い顔してやしたけどね。賢い坊やでさ。空気読んで頷いてくれやしたぜ」
「アシハナ!!」
ジョージは起き上がり、声を張り上げる。
「あんな子どもに、性的な行為を示唆させるような真似はするな!しろがねの記憶があろうがなかろうが、子どもは子どもだ!賢かろうがなんだろうが、子どもは子どもとして扱え!」
「な、何怒って--」
「子どもらしい時間を奪われた子どもがどうなるか、お前には分からないのか!」
怒鳴られた阿紫花は、一瞬目を丸くした。しかしすぐに起き上がり、目を吊り上げ、
「何小難しい事言ってんでえ。こっちだって何も好き好んで坊やにこんな惨めな頼み事してんじゃねえ!どっかの銀目のカタブツが『実家にいる間はそういう事はしないようにしたい』とか訳分かンねえ事言い出したから、あたしがわざわざ離れに用意してもらったりなんだり--」
「いくら離れでも、隣には子ども--しかも女の子ばかりいるんだぞ!?彼女らの年頃の多感な時期に、悪影響だ。ただでさえ私たちは--男同士なのに」
その言葉に。
阿紫花は本当に、失望したような顔をした。
ジョージは再び横になった。そして背を向ける。
「寝よう。……」
「……」
答えは無かった。阿紫花は立ち上がり、そっと出て行く。
ジョージは追わなかった。
(アシハナ、馬鹿なヤツ。へらへらした生き方をしているからだ)
きっと阿紫花が思うより、子どもはもっと、傷つきやすくて壊れやすい。
『お前は機械だ。ジョージ。お前は--メトロノームだ』
耳に記憶が蘇り、ジョージは枕を握り締めた。
(以前の私はもっと、冷たかった。どんなに子どもが死んでも何も感じなかった)
いや、感じない『振り』が出来た。
今は出来ない。
(アシハナの弟や妹もまだ子どもだ。……アシハナめ。もっと考えろ。無責任男め)
そんな事を考えながら、ジョージは目を閉じた。
起きて阿紫花を待っている気にはならなかった。すぐに眠った。
「ジョージがあたしに冷てェんだよチキショウ~……」
傷心の阿紫花のもぐりこんだ先は。
「どうせ英良が悪いんじゃなくて?」
「じゃないの?どんなケンカだか知らないけど」
「でもジョージさん、英兄の保護者みたいで大変ね~」
菊、れんげ、百合は涼しい部屋に集まって寝ていた。何故か、灯りの無い部屋の中でも華やかに感じられる空気だった。無理も無い。阿紫花家の娘たちは美しい。
阿紫花はそんな娘っ子らの枕元に、布団も無いのに寝転がっている。まさか一緒に布団に入るわけにはいかない。
平馬と勝は、扇風機のある養父母の部屋だ。すでに寝ているだろう。
「保護者なら保護者らしく優しくしろってんだ。馬鹿ジョージ。……」
阿紫花は恨めしそうに娘たちを見る。
「あんたらに気を遣ってあたしらがセックス出来ないのが原因だ」などとは、まさか言えない。田舎の女子高生・女子中学生に過ぎない彼女らにする話ではない。その辺はさすがに阿紫花にも分かる。百合のオボコ顔など、見ているだけで癒されるが、その手の話を振っても理解しない雰囲気がある。
ジョージのように神経質なのは嫌いだ。だがさすがに、
(……やっぱ、ちっとは正しいんですかね。ジョージの言い分も……)
自分の子どもの頃は--と、薄苦い記憶を思い出し眉をしかめた阿紫花の顔を、れんげが覗き込んでくる。
「どったの。英兄」
「なんでもねえ」
「そういえばさあ、--英兄が女役なんだよね?」
「ブッ」
阿紫花は盛大に噴出した。
れんげはさも当たり前のように、
「ジョージちん、優しい?丁寧?」
「黙れこのアマ。お前ェ、菊はともかく百合が--」
そう言って阿紫花が百合を見ると。
百合は変にきらきらした目をしている。
「ゆ、百合?」
「こ、こないだね!」
百合は早口に、「クラスの子に、男の子同士が恋に落ちる小説借りちゃって!そ、それで、信じられなくて、ジョ、ジョージさん来たら、英兄とどんな風に恋に落ちたのか聞こうかと--」
「だから、そういう小説は架空のモノだって言ってるじゃないの」
菊だ。「ジョージになんて説明するのよ。日本の女の子が馬鹿だと思われちゃうわよ。大体おかしいのよ、美少年同士が、まるで男女の仲のように当たり前にセックスしてる内容なんて。現実味がないわ」
「キャッ、やめてよもう!愛し合う形は自由だってれんげ姉だって言ってたじゃない!」
話を振られたれんげは首をかしげ、
「そりゃそうだけど。痛いよ~?初体験って。女の子だって痛いのにさあ、男の子だと、アレじゃん、使う場所ってアレじゃん。小説みたいな展開、あるはずないよ。痛いって。ねえ?兄貴」
「……」
三十路に突入し半ば過ぎ。そんな自身の年齢を思い出し、阿紫花は無言で顔を押さえた。
最近の若い娘らの趣味はどうなっているだろう。
「……いや、あたしの若い頃にもそういうのありやしたわ……加納が読んでた」
「そうなんだ。へ~……」
百合は感心した様子で、「いつの時代にもいるんだ、ボーイズラブ好きな女の子」
「それよりさあ、英兄!やっぱ兄貴、女役なの?」
「どうなの?英良」
「答えて!気になって仕方ないの~!」
娘らの猛攻に阿紫花は。
「……ジョージと相談して教えやすよ……」
立ち上がり、開いた襖から飛び出してひとまず逃げ出した。
「……と、百合!油性ペンねえか?」
「え~?冷蔵庫に箱取り付けてあるでしょ。その中。食べ物のパックとかに書いておく用のでいいの?」
「そうかい、ありがとよ」
すぐ返してよ~?、という百合の声を背に、阿紫花は出て行った。
翌朝。
「おはよう、みんな」
「はよ~」
勝と平馬は台所にやってきた。
「おはよう。よく寝た?」
エプロンを着けて味噌汁を配っている百合が笑いかけてくれた。
勝は微笑み返し、
「うん。手伝うよ。おじさんとおばさんの部屋は涼しかったけど、そっちはどうだった?」
「ありがとう。これ運んでくれる?こっちも涼しかったわよ。やっぱりあそこの部屋がいいのよね」
「そうみたいだね」
勝も慣れた様子で味噌汁椀を配っていく。阿紫花家の両親、三姉妹と平馬はすでに揃っている。
(……朝寝坊かな。阿紫花さんたち……)
僕にあんな事を頼むなんて、阿紫花さん相当溜まってるんだろうなあ。
子どもの癖に勝は余計な詮索をしてしまう。多少患者を診る医者のような心理が入っているのは、祖父のせいだろう。
(大人って大変だなあ……)
余計なお世話、と当の大人たちが言いそうな事を勝は考えている。
そんな勝をよそに、百合はおたまを使いながら、
「サーカスの人たちも眠れたかな?広場って暑いのかしらね?そうだ、英兄たち、暑くなかったかしら。--マジック……あら、戻ってない」
百合は冷蔵庫の側面に磁石で引っ付いている箱を見る。数本の色々なペンやメモが入っている。
「どうしたの?」
「あのね、昨日英兄が部屋にやって来て--ペン、を……借……」
「?」
百合が何かに気づいたように、廊下へ続く暖簾を見つめている。
全員がそれを見た。
「おはよう」
ジョージの声が暖簾の向こうでした。
鴨居で頭を打たないように、身をかがめて台所へ入ってくる。
黒い長袖と長ズボンという姿だが、いつものコート姿に比べれば大分ラフだ。サングラスも外している。
いや大事なのはそこではなくて。
「アシハナ--エイリョウを知らないか?朝から姿が見えなくて」
「ジョージちん、顔……洗った?」
「? 外の水道で……あの水道は使ってはいけなかったのか?」
「……英良がいないのも、当然、よ……」
クッ、と、菊の咽喉の奥がなる。堪えている。
「……プッ」
連鎖反応だ。れんげは笑いを堪える。勝は目を反らし顔を赤らめているし、阿紫花の両親は笑い出したいが出来ない、という顔だ。
「……ぎゃはははははははははははッ」
とうとう平馬は大笑いだ。
勝は笑いを堪えながら、
「平馬ッ悪いよ!」
「だ、だって!ジョ、ジョージ、あのマジメ腐った顔で、それ、あはははははははッ!」
百合だけは気の毒そうに、棚にあった小さな鏡を差し出して見せてくれた。
「英兄を、あんまり怒らないでね……?」
「!!」
黒いマジックペンで、ヒゲらしきものが書いてある。その上、極太の眉毛や派手な睫毛、ほっぺのくるくるマーク、……その他にホクロや落書き少々。
宴会芸ですらないだろう己の顔に、ジョージはがっくりと頭を垂れた。
「なんだこれは……」
「油性ペンだよね、これ……英兄、ひどい事して、もう……」
百合は困った顔でジョージに「ごめんね」と言ってくれる。
菊は立ち上がり、努めて冷静に、
「ちょっと待ってらして。化粧落とし、持って来るわ」
「化粧落とし?」
何故かジョージではなく、父親が声を荒げた。
「こらお前、化粧なんぞしとるのか!?」
「はい。時々」
冷静な菊に、養父は泣きそうな顔になり、
「ど、どうして!」
「この先私が大学生や社会人になるに当たり、知っておいた方が良いと、お母さんに買って頂きました」
「え?そうなのか?」
養母は頷き、
「いやだわ、お父さん。あたしたちの若い頃なんか、学校でお化粧の授業があったんですよ。社会人になる女子高生のために」
「そうだったのか!?知らんかった。……でも早くないか?高校生で……ううむ……」
「本当にたまのお休みに、軽く、薄化粧ですわ。菊も弁えてますよ。ねえ?それに、綺麗ですよ、菊のおめかしした顔……。れんげや百合も、その内に買ってあげますからね」
はーい、とれんげと百合は素直に声を上げるが、菊は冷静だ。
「それより、今はジョージに化粧落としを……」
「あ、そうだったわ。行って来て」
放置されたジョージの落ち込みようが、半端ない。椅子に腰を下ろし、俯いて黒い影を背負っている。
「ジョ、ジョージさん、すぐ落ちるわよ」
「そ、そうだよ。洗えば落ちるよ」
なんとか百合と勝が励ます隣で、れんげと平馬は無責任に、
「あはは。ジョージちん、似合ってるよ。カワイイカワイイ。あれ、おでこに何か……英語かな?書いてる」
「ぷっ、ぷくく。ジョージィ、お前ェ、英兄におもちゃにされてんのかよ。オデコ広いからメモ代わりか?」
大変なのは両親だ。
「平馬ッ!お前まで人を傷つけるような事を言うな!すまんなあ、ジョージさんや。うちの馬鹿息子に……」
「ホント、ごめんなさいね」
「まったくあいつはいくつになっても馬鹿ばっかりして……」
ホントですね、と言い出す事も出来ない。ジョージはひたすら項垂れて顔を隠している。
化粧落としのクレンジングオイルを片手に、菊がジョージを呼ぶ。
「ジョージ、こっちへ来て頂戴。一緒に洗面所で洗い流しましょう。みんなは先に食べてて頂戴。お味噌汁が冷めてしまうわ。あ、勝は一緒に来て」
「オイルだけじゃ落ちない時って、何が効くかしら」
洗面所に連れられ、顔を洗うジョージの背後で、菊と勝は小声で相談し始めた。
「君だったら、効果的な方法を思いつくか、知っているかしないかと思って」
「う~ん……。リモネンとか油と分子の大きさが似てるし、落ちるって聞いた事あるけど」
「リモネンは、今使っている化粧落としにもう入ってるわ。……やっぱり、あんまり落ちなかったわね」
菊は鏡の中のジョージを見上げる。
「ジョージ、もう一回洗いましょうか?」
「……キク、du dissolvant vernisはあるか」
「え?フランス語?」
「……私は今経験した事がない種類の動揺している。日本語がとっさに出てこない。爪の色を落とす、薬品だ」
「あ、あるわよ。除光液、リムーバーね。まさかそれで……お肌痛むわよ」
ハン、と鏡の中のジョージが哂う。
「例え身体中の皮膚が剥がれても、私はすぐに再生する。持ってきてくれ」
「え、ええ……」
自動人形やしろがねの事を、ある程度理解している菊は頷いた。
--そして除光液で顔を洗ってすぐに。
ジョージは台所に現れた。
大部分が消えたとはいえ、うっすら油性マジックの痕の残る顔のまま。
「--どうもありがとう、心配してくれて」
阿紫花家の面々に、ジョージはわざとらしいほどの笑顔で、
「礼節と謝罪を向けてくれたお二人(養父母)と、慰めてくれた二人(百合と勝)、建設的な助けになってくれた一人(菊)と、……」
怖いくらい不自然な笑顔で、れんげと平馬の肩を押さえ、
「この怒りを煮えたぎらせてくれた君たちに感謝する。……エイリョウをこらしめてくる」
う、と気圧されされた二人は口々に、
「ジョージちん、目が笑ってない」
「怖ェ~……ジョージってホントに昔子ども相手の仕事してたの?」
平馬の言葉に、フ、とジョージは微笑った。作り笑いではない。
「してたさ。……」
サングラスをして、ジョージは出て行った。朝食を食べ始めていない菊と勝が見送りに出て行った。
全員、食事の進みがいつもより遅い。しかし父親は心から悪いと感じているらしく、速度を速める事も出来ずにいる。
「こまったもんだ。英良にも」
「ええ本当。……」
「なんだ、母さん」
「いえ……」
母親はかすかに笑って、
「英良が、悪戯ですって……」
「……」
平馬とれんげと百合が、食べる手を止める。
それに気づいた母親は微笑んだまま、
「私たちには、一度もそんな事しなかった……」
「この間の世界陸上で、百メートル世界新記録が出たようだけど、軽く越えたわね。……プッ。笑っちゃう……」
走り去るジョージの背を見つめ、玄関先で菊が笑う。マジックで落書きされたジョージの顔を思い出したのだ。
勝も微笑みながら、
「多分フルマラソンくらいの距離なら、あの速さで走れると思うよ。ジョージさんなら。ううん、一日ずっと走っても平気かな」
そういう風に作られている。機構を知っている勝は苦笑する。
「ホントウ?それって、『しろがね』の血のため?」
「(どこまで説明していいものかな)そんな感じ。機械の部分もあるし……」
「……血、ね……。では君も、あれくらい早く走ったり出来る?飲んでるんでしょ?長生きしたりとか、出来そう?」
「僕は……」
ミン、とひっきりなしに蝉が鳴いている。
勝は笑った。
「出来ないよ。そうだなあ、三日くらい徹夜しても平気なくらいにはなってるかも知れないけどね。本物のしろがねや、ジョージさんみたいに一週間も二週間も起きて動き続けるなんて出来ないよ。しろがねの血を飲んだって、しろがねにはならないよ。少し丈夫になるだけ。少し健康になるだけ。……僕は菊さんと同じに、歳を取るよ。黒賀村のみんなも、阿紫花さんも」
「三日の徹夜なら、私も出来ますわ」
クス、と菊は笑った。
「なあんだ。そうなんだわ。……てっきり私は……」
「……?」
「英良も『そうなってしまった』から、……長生きする事になったから、時間を持て余して仕方なくジョージと一緒にいるのだと思っていたわ」
「……」
「違うのね。……」
ミンミンミン、と。蝉が鳴いている。
ジョージの額の隅にフランス語で。
『Je t'aime,Mais vous ne m'aimez.(貴方を愛している。でも貴方は愛してくれない)』
そう書いてあった。
菊は仕方なさそうに微笑んだ。
「……私だってフランス語くらい読めますのにね」
「……僕も」
くす。
二人は顔を見合わせて、笑った。
NEXT⇒
終わりませんでした。4に続きます。
未成年者の閲覧マジ禁止。
ムリヤリ気味なジョと、Mっ気ありそうな阿紫花のそういう場面。
男同士でアレコレしてますので、熟成してない腐女子(チーズか)はブラウザ閉じて下さい。
アタクシはブルーチーズよ、という猛者な貴腐人だけお楽しみ下さい。
……チーズなんて本文に一個も出てきませんよ。(ボソ)
本当になんつーか、「こんなのジョージじゃないわ!」「阿紫花はこんな女々しくない!」という叫びが、聞こえてきそうで怖いです。
BGM:R・ed Frac・t・ion / M・il・l
ピッチ換えて低音にした、男みたいな声にしたヴァージョン。
未成年者の閲覧マジ禁止。
ムリヤリ気味なジョと、Mっ気ありそうな阿紫花のそういう場面。
男同士でアレコレしてますので、熟成してない腐女子(チーズか)はブラウザ閉じて下さい。
アタクシはブルーチーズよ、という猛者な貴腐人だけお楽しみ下さい。
……チーズなんて本文に一個も出てきませんよ。(ボソ)
本当になんつーか、「こんなのジョージじゃないわ!」「阿紫花はこんな女々しくない!」という叫びが、聞こえてきそうで怖いです。
BGM:R・ed Frac・t・ion / M・il・l
ピッチ換えて低音にした、男みたいな声にしたヴァージョン。
The half way 3
「お前は置いていく」
ガチッ、と音がした。
怒りのあまり、阿紫花は自分の舌先を歯で噛み破っていた。
「~ふざけんなッ!!」
ぱっ、と口から赤い唾液を撒き散らす。しかし阿紫花はその事にすら気づいていない。
怒りで目の色が変わっている。そのまま怒鳴り散らすのかと、ジョージは早くも耳の奥が痛む感覚すら覚えた。
「……!」
だが何かを叫ぼうとした阿紫花は、そのままの顔で数秒固まった。
顔から感情的な色が消えていく。
完全に表情が無くなった瞬間、阿紫花は--哂った。道中で時折見せた、煙草を咥えて斜に構えた態度だ。
「……そいつァねえでやしょ」
阿紫花は睨むように哂った。
(--馬鹿ではないらしい)
ジョージは密かに値踏みする。
派手に騒ぎ立てれば相手を動かせる、と思い込んでいるような愚か者ではないらしい。当たり前か、曲がりなりにも阿紫花は人間にしては上出来な人形遣いだ。ジョージはヤクザの世界は詳しく知らない。だが阿紫花が殺し屋を長年やってきて生き残っている人間なら、「馬鹿ではない」か。いや、
「早死にするぞ、阿紫花」
傍で見て危な気な人間は皆、馬鹿に見える。馬鹿は早く死ぬ。
ジョージの冷たい視線に、阿紫花は鼻を鳴らす。
「……アンタ、人相占いでもやってんでェ?えっらそうに……」
「人形と人形破壊者の世界に、人間など必要ない。人間の人形遣いなど、ただ一度の戦いも生き残れない。速度も、パワーも、強度も、何もかも、人間は人形以下、しろがね以下だ」
「……ケッ……なら、あたしはアンタとは大分遠いこってしょうねえ。安心しやしたよ。胸クソ悪ィ銀目野郎たァ、天と地ほども離れてンだ」
「そうだ。近づくな。阿紫花」
阿紫花の顔に鼻先を近づけ、ジョージは言った。
「私もお前のような半端な人間には、近づきたくない」
ふわ、と、甘い匂いが阿紫花の鼻先をかすめた。果実のような。
(香水?……)
場に似合わない香りに、阿紫花は鼻白む。
不意に、女の芳しい柔らかい肌を思い出してしまった。
(女、抱きてえなあ……)
目を伏せてしまった。女の肉の感触を思い出して、怒りが少し萎えた。
ストレスを感じると、単純に癒されたくなる。
「……近づいてんのは、アンタでやしょ……」
そう阿紫花が呟くと、ジョージは黙り込んだ。
何か、嫌な感じがしている。阿紫花は気づく。
覚えがある、空気だ。
ジョージの沈黙が気持ち悪い。
--先刻自分は、どうしてバスローブのベルトをしっかりと締めて出てこなかったのだろう。暴れた弾みでバスローブの前が全開になっている。へその下まで丸見えだ。
黙って見下ろしてねえで何か言いやがれチクショウ--と、口に出せない。空気が重い。
逃げたい。いつものようにうまくやらなくては。血迷った連中をかわすように、逃げなくては。銃を拾えるだろうか?
場の雰囲気を変える何かが欲しい。ジョーク?タンカ切る?何故だろう、どれも効果が想像できない。人形め、どうしたらいい?
阿紫花は数秒考え、覚悟を決めた。
媚びて隙を作る。
「……血が、」
阿紫花は呟いた。「痛ェ」
「……」
「ジョージさん、……」
ジョージに掴まれた右手を、わずかに動かす。
上目遣いに囁いた。
「あたしの痛ェトコ--舐めてやっちゃくれやせんか」
「……」
ぴくり、と、ジョージの手が動いた。
「ね……あたしの右手、離して……」
阿紫花はやるせない口調を装って小さく呟く。
--これで我に返るか、それとも隙だらけになるか。出来れば前者であってほしいが、後者でも構わない。右手が開放されたら銃を拾える。
先ほどの鮮やかな怒りなど、とうにどこかへ行ってしまった。今は鈍く不快なだけだ。そもそもジョージは怒ってはいなかった。そんな相手に本気で怒りをぶつけても、どうしようもない。
ジョージは悪意なしで人を不快にさせる男だと、ここ数日で分かっていたはずだった。しかしどうやら阿紫花も、爪を剥がされて自分で思う以上に動揺していたらしい。今頃になって、「嘘泣きでも泣きついたら普通に許してくれてたんじゃねえのか」と思い始めている。
だが今となっては、泣きつくなど出来る空気ではない。いやいっそおどけて見せようか。子どものように拗ねて白けさせるとか。
阿紫花は頭なの中で何通りもシミュレートする。
だが。
「--何を企んでいる?アシハナ」
ジョージの口から出たのは、そんな言葉だった。
「何の芝居だ」
「……芝居だなんて」
案外目聡いでやんの、この薄ら馬鹿。--阿紫花は目を伏せてうっすら微笑む。
ジョージが喋ったと同時に、空気が軽くなった気がした。
多分大丈夫だろう。もっと砕けた言葉を選んでも。
阿紫花は左手だけで肩をすくめ、
「ねえ、離して下せえよ。あたしもこんなカッコ、恥ずかしいんでさ。あたしを連れて行かない理由ってのは、後で聞きやすから。痛ェんですよ、指が……マジで役に立たなくなっちまいそうでさ」
「……」
「それに、雨に濡れてたもんで、風邪引いちまう。兄さん、ちょいと替えのバスローブ出してやってくれねえかい?それに指も、何か手当てしねえと……あたしの荷物に薬くれえありますから、自分で……」
「必要ない」
ジョージに左腰から抱きかかえられるようにして動いた自分に、阿紫花は目を見開く。右手は握られたままだ。
「ちょ、何……」
どこへ連れて行く?--そう思った瞬間、目に入ったのはでかいベッドだった。
「ジョージ……っ」
「痛いのだろう?」
「何言って……」
ぼん、とベッドの真ん中に放り投げられ、阿紫花は身を丸めた。スプリングが効いてボールのように身が弾む。
「……!」
身を起こそうとした所へ、何かが目の前を動いた。目で追えないほど速く。
気づくと両腕の手首を、何かで頭上に纏められている。金属だ。見覚えがある。
両手首を戒める金属の輪が、アール・ヌーヴォー風のベッド柵に絡まっている。流水紋のようなツタと絡まるように手首を戒められた阿紫花が、警戒の声を上げる。
「……何の冗談でェ」
「右手は離した」
銃を突きつけられたように、ジョージが両手を顔の位置まで上げてみせる。「『痛い所を舐めて』、か。指が痛いのだったな」
ロングコートの裾が、風も無いのに不自然に動いている。ジョージが一歩足を踏み出す毎に、それは裂けて短くなっていくように見える。阿紫花はぞっとした。
人形じゃねえ。--バケモンだ。
「アシハナ。--私は冗談は言わない」
ジョージが、ベッドに膝を乗せる。
ギシリ、と、神経を逆なでする音がした。
「……冗談じゃねえ」
「だから冗談じゃない」
阿紫花に覆い被さるようにして顔を近づける。
「冗談などではない」
「……」
「そろそろ誰かが痛めつけるべきなのかも知れないな。二度と厄介事に首を突っ込まないように。二度と愚かな真似をしないように。二度とそんな気すら起きなくなるように」
その静かな声に、阿紫花は戸惑った。
ずっと以前にム所帰りの雄牛に迫られた。その時、阿紫花は心底冷めた心持だった。恐ろしく鼻息の荒い下衆野郎の延髄を、持っていた目打ちで貫いた。小指よりも細い整備用具。脳の呼吸を司る部位を破壊され、びくびくと痙攣しながらその男は絶命していった。
死にいく体を腹の上に乗せ、阿紫花は冷め切って、「これを人形に使ったら、血糊で歯車が狂っちまう。新しい目打ちを買わねえと」としか考えていなかった。
不愉快な経験なら、たんとある。欲情に脳味噌と下半身を滾らせている馬鹿なら一目で分かる。
だが分からない。
「私たちが二度と顔をあわせなくても済むように」
ジョージの静かな声に、阿紫花は戸惑う。
何故--そんなに冷静な顔でいる。どうして--それほど憎む。
「あたしが何かしたのかよ」
阿紫花は震える声で叫ぶように口を開けた。
「あたしがアンタに何をした!」
「……」
阿紫花の、噛み破った舌から血を流すその口にジョージは。、
「私がお前を嫌いなだけだ」
獲物に密かに噛み付くように口付けた。
「……っ」
傷ついた舌に同じ器官で触れられ、鈍い痛みが走る。
顎を掴まれ、顔を背ける事が出来ない。歯で舌を噛み切ってやろうとしれも顎が動かない。
熱い。顎を掴む手の熱。口の中で絡む舌。
目が眩む。
「は……」
柔らかい舌にさんざ口内を犯され、酸欠になりかけた所で解放された。
ぐったりと寝具の柔らかさに甘えていると、内股に触れる手に息を詰まらせた。
「よしゃあがれっ!……馬鹿野郎!」
蹴り上げるように足をばたつかせ、阿紫花は叫ぶ。
「アンタ、野郎が好きな性質じゃねえだろ!」
ジョージが阿紫花の顔を見る。
阿紫花は苦々しく嘆息した。
「分かンだよ、……そういう野郎に目、付けられっから。……ム所で男覚えたヤツとかよ、見境ねえ。マジに鼻息ばっか荒くて、テント突っ張らせて……ああいうのを犬畜生って言うンだぜ。……アンタ、そういうンじゃねえだろ」
「……」
「なんか……アンタ、そういうヤツじゃねえ気がすっからよ……」
だから退いてくれ、という気持ちで阿紫花は目を閉じる。
「そうか」
ジョージが呟いた。
右足の足首を持ち上げられ、阿紫花は目を開ける。
「お前の見込み違いだ」
「な……」
する、と尻肉の奥に指が触れる。「ひっ、やめ、」
「ここに」
指の爪先がわずかに捻じ込まれる。「私のを入れて射精する。それだけだ。……」
「~、抜けッ!嫌だ!そんな、や……っ」
抉じ開けられた肉が引き攣る。「痛っ……」
「固いな」
指が引き抜かれる。
阿紫花は荒く息を乱している。心臓が速く鼓動して、痛いほどだ。
「は……」
潤んだ目で見上げると、ジョージと目が合う。
ジョージがベッドから降りた。
「……水を止めてくる」
浴槽の水か。そういえば出しっぱなしだった。
戻って来ないでくれ、と言いたかったが、力が抜けて何も出来ない。
どうしてこんな事になる、あたしが何をした?--そう叫びたかった。
手首の戒めを動かすが、がちゃがちゃと音が鳴るだけだ。取れそうにない。
「取れないぞ」
ジョージが戻ってきた。
「人間の力では絶対に」
ジョージが何か持っている。
「……何持って来た」
「使えそうなものを」
粘度の高いローションの瓶だ。
センスのいい模様の入ったそのアクリル瓶を見た瞬間、阿紫花は改めてぞっとした。本気だ。
「入るかどうか、分からないからな。だがまあ、入れるのは出来る。お前が壊れるかも知れんが、知った事ではない」
軽い音がして、蓋が外れる。
再び右足首を掴まれ、阿紫花は吐き気を覚えた。やめろ、とも言えない。言っても無駄だし、--何をされるのか、見当がついている。
怯えにも取れる表情で固まる阿紫花に、膝を割り身を入り込ませたジョージが顔を上げる。
「……イヤか」
「イヤだ。あ--あたし、それだけはイヤだ」
「……」
「女にだってさせた事、ねえ。い、イヤだ。イヤ」
一度はっきり声に出すと、零れ落ちるように本音が出てくる。
「なんで、こんな事すんだ。イヤだ。あ、あたし--」
イヤ、と繰り返す阿紫花に、
「……もう遅い」
ジョージはローションの瓶を傾けた。
粘度の高い液体が、両足の間を濡らしていく。
「……っ」
「近づき過ぎたんだ」
ジョージの呟きに、「一体何が」、と思った瞬間。
長く太い指がそこへ入り込んできて、阿紫花は不随意に嚥下した。
固唾と、そしておそらくはジョージの唾液の混ざった自分の血を。
続きます。(終わらなかった
「お前は置いていく」
ガチッ、と音がした。
怒りのあまり、阿紫花は自分の舌先を歯で噛み破っていた。
「~ふざけんなッ!!」
ぱっ、と口から赤い唾液を撒き散らす。しかし阿紫花はその事にすら気づいていない。
怒りで目の色が変わっている。そのまま怒鳴り散らすのかと、ジョージは早くも耳の奥が痛む感覚すら覚えた。
「……!」
だが何かを叫ぼうとした阿紫花は、そのままの顔で数秒固まった。
顔から感情的な色が消えていく。
完全に表情が無くなった瞬間、阿紫花は--哂った。道中で時折見せた、煙草を咥えて斜に構えた態度だ。
「……そいつァねえでやしょ」
阿紫花は睨むように哂った。
(--馬鹿ではないらしい)
ジョージは密かに値踏みする。
派手に騒ぎ立てれば相手を動かせる、と思い込んでいるような愚か者ではないらしい。当たり前か、曲がりなりにも阿紫花は人間にしては上出来な人形遣いだ。ジョージはヤクザの世界は詳しく知らない。だが阿紫花が殺し屋を長年やってきて生き残っている人間なら、「馬鹿ではない」か。いや、
「早死にするぞ、阿紫花」
傍で見て危な気な人間は皆、馬鹿に見える。馬鹿は早く死ぬ。
ジョージの冷たい視線に、阿紫花は鼻を鳴らす。
「……アンタ、人相占いでもやってんでェ?えっらそうに……」
「人形と人形破壊者の世界に、人間など必要ない。人間の人形遣いなど、ただ一度の戦いも生き残れない。速度も、パワーも、強度も、何もかも、人間は人形以下、しろがね以下だ」
「……ケッ……なら、あたしはアンタとは大分遠いこってしょうねえ。安心しやしたよ。胸クソ悪ィ銀目野郎たァ、天と地ほども離れてンだ」
「そうだ。近づくな。阿紫花」
阿紫花の顔に鼻先を近づけ、ジョージは言った。
「私もお前のような半端な人間には、近づきたくない」
ふわ、と、甘い匂いが阿紫花の鼻先をかすめた。果実のような。
(香水?……)
場に似合わない香りに、阿紫花は鼻白む。
不意に、女の芳しい柔らかい肌を思い出してしまった。
(女、抱きてえなあ……)
目を伏せてしまった。女の肉の感触を思い出して、怒りが少し萎えた。
ストレスを感じると、単純に癒されたくなる。
「……近づいてんのは、アンタでやしょ……」
そう阿紫花が呟くと、ジョージは黙り込んだ。
何か、嫌な感じがしている。阿紫花は気づく。
覚えがある、空気だ。
ジョージの沈黙が気持ち悪い。
--先刻自分は、どうしてバスローブのベルトをしっかりと締めて出てこなかったのだろう。暴れた弾みでバスローブの前が全開になっている。へその下まで丸見えだ。
黙って見下ろしてねえで何か言いやがれチクショウ--と、口に出せない。空気が重い。
逃げたい。いつものようにうまくやらなくては。血迷った連中をかわすように、逃げなくては。銃を拾えるだろうか?
場の雰囲気を変える何かが欲しい。ジョーク?タンカ切る?何故だろう、どれも効果が想像できない。人形め、どうしたらいい?
阿紫花は数秒考え、覚悟を決めた。
媚びて隙を作る。
「……血が、」
阿紫花は呟いた。「痛ェ」
「……」
「ジョージさん、……」
ジョージに掴まれた右手を、わずかに動かす。
上目遣いに囁いた。
「あたしの痛ェトコ--舐めてやっちゃくれやせんか」
「……」
ぴくり、と、ジョージの手が動いた。
「ね……あたしの右手、離して……」
阿紫花はやるせない口調を装って小さく呟く。
--これで我に返るか、それとも隙だらけになるか。出来れば前者であってほしいが、後者でも構わない。右手が開放されたら銃を拾える。
先ほどの鮮やかな怒りなど、とうにどこかへ行ってしまった。今は鈍く不快なだけだ。そもそもジョージは怒ってはいなかった。そんな相手に本気で怒りをぶつけても、どうしようもない。
ジョージは悪意なしで人を不快にさせる男だと、ここ数日で分かっていたはずだった。しかしどうやら阿紫花も、爪を剥がされて自分で思う以上に動揺していたらしい。今頃になって、「嘘泣きでも泣きついたら普通に許してくれてたんじゃねえのか」と思い始めている。
だが今となっては、泣きつくなど出来る空気ではない。いやいっそおどけて見せようか。子どものように拗ねて白けさせるとか。
阿紫花は頭なの中で何通りもシミュレートする。
だが。
「--何を企んでいる?アシハナ」
ジョージの口から出たのは、そんな言葉だった。
「何の芝居だ」
「……芝居だなんて」
案外目聡いでやんの、この薄ら馬鹿。--阿紫花は目を伏せてうっすら微笑む。
ジョージが喋ったと同時に、空気が軽くなった気がした。
多分大丈夫だろう。もっと砕けた言葉を選んでも。
阿紫花は左手だけで肩をすくめ、
「ねえ、離して下せえよ。あたしもこんなカッコ、恥ずかしいんでさ。あたしを連れて行かない理由ってのは、後で聞きやすから。痛ェんですよ、指が……マジで役に立たなくなっちまいそうでさ」
「……」
「それに、雨に濡れてたもんで、風邪引いちまう。兄さん、ちょいと替えのバスローブ出してやってくれねえかい?それに指も、何か手当てしねえと……あたしの荷物に薬くれえありますから、自分で……」
「必要ない」
ジョージに左腰から抱きかかえられるようにして動いた自分に、阿紫花は目を見開く。右手は握られたままだ。
「ちょ、何……」
どこへ連れて行く?--そう思った瞬間、目に入ったのはでかいベッドだった。
「ジョージ……っ」
「痛いのだろう?」
「何言って……」
ぼん、とベッドの真ん中に放り投げられ、阿紫花は身を丸めた。スプリングが効いてボールのように身が弾む。
「……!」
身を起こそうとした所へ、何かが目の前を動いた。目で追えないほど速く。
気づくと両腕の手首を、何かで頭上に纏められている。金属だ。見覚えがある。
両手首を戒める金属の輪が、アール・ヌーヴォー風のベッド柵に絡まっている。流水紋のようなツタと絡まるように手首を戒められた阿紫花が、警戒の声を上げる。
「……何の冗談でェ」
「右手は離した」
銃を突きつけられたように、ジョージが両手を顔の位置まで上げてみせる。「『痛い所を舐めて』、か。指が痛いのだったな」
ロングコートの裾が、風も無いのに不自然に動いている。ジョージが一歩足を踏み出す毎に、それは裂けて短くなっていくように見える。阿紫花はぞっとした。
人形じゃねえ。--バケモンだ。
「アシハナ。--私は冗談は言わない」
ジョージが、ベッドに膝を乗せる。
ギシリ、と、神経を逆なでする音がした。
「……冗談じゃねえ」
「だから冗談じゃない」
阿紫花に覆い被さるようにして顔を近づける。
「冗談などではない」
「……」
「そろそろ誰かが痛めつけるべきなのかも知れないな。二度と厄介事に首を突っ込まないように。二度と愚かな真似をしないように。二度とそんな気すら起きなくなるように」
その静かな声に、阿紫花は戸惑った。
ずっと以前にム所帰りの雄牛に迫られた。その時、阿紫花は心底冷めた心持だった。恐ろしく鼻息の荒い下衆野郎の延髄を、持っていた目打ちで貫いた。小指よりも細い整備用具。脳の呼吸を司る部位を破壊され、びくびくと痙攣しながらその男は絶命していった。
死にいく体を腹の上に乗せ、阿紫花は冷め切って、「これを人形に使ったら、血糊で歯車が狂っちまう。新しい目打ちを買わねえと」としか考えていなかった。
不愉快な経験なら、たんとある。欲情に脳味噌と下半身を滾らせている馬鹿なら一目で分かる。
だが分からない。
「私たちが二度と顔をあわせなくても済むように」
ジョージの静かな声に、阿紫花は戸惑う。
何故--そんなに冷静な顔でいる。どうして--それほど憎む。
「あたしが何かしたのかよ」
阿紫花は震える声で叫ぶように口を開けた。
「あたしがアンタに何をした!」
「……」
阿紫花の、噛み破った舌から血を流すその口にジョージは。、
「私がお前を嫌いなだけだ」
獲物に密かに噛み付くように口付けた。
「……っ」
傷ついた舌に同じ器官で触れられ、鈍い痛みが走る。
顎を掴まれ、顔を背ける事が出来ない。歯で舌を噛み切ってやろうとしれも顎が動かない。
熱い。顎を掴む手の熱。口の中で絡む舌。
目が眩む。
「は……」
柔らかい舌にさんざ口内を犯され、酸欠になりかけた所で解放された。
ぐったりと寝具の柔らかさに甘えていると、内股に触れる手に息を詰まらせた。
「よしゃあがれっ!……馬鹿野郎!」
蹴り上げるように足をばたつかせ、阿紫花は叫ぶ。
「アンタ、野郎が好きな性質じゃねえだろ!」
ジョージが阿紫花の顔を見る。
阿紫花は苦々しく嘆息した。
「分かンだよ、……そういう野郎に目、付けられっから。……ム所で男覚えたヤツとかよ、見境ねえ。マジに鼻息ばっか荒くて、テント突っ張らせて……ああいうのを犬畜生って言うンだぜ。……アンタ、そういうンじゃねえだろ」
「……」
「なんか……アンタ、そういうヤツじゃねえ気がすっからよ……」
だから退いてくれ、という気持ちで阿紫花は目を閉じる。
「そうか」
ジョージが呟いた。
右足の足首を持ち上げられ、阿紫花は目を開ける。
「お前の見込み違いだ」
「な……」
する、と尻肉の奥に指が触れる。「ひっ、やめ、」
「ここに」
指の爪先がわずかに捻じ込まれる。「私のを入れて射精する。それだけだ。……」
「~、抜けッ!嫌だ!そんな、や……っ」
抉じ開けられた肉が引き攣る。「痛っ……」
「固いな」
指が引き抜かれる。
阿紫花は荒く息を乱している。心臓が速く鼓動して、痛いほどだ。
「は……」
潤んだ目で見上げると、ジョージと目が合う。
ジョージがベッドから降りた。
「……水を止めてくる」
浴槽の水か。そういえば出しっぱなしだった。
戻って来ないでくれ、と言いたかったが、力が抜けて何も出来ない。
どうしてこんな事になる、あたしが何をした?--そう叫びたかった。
手首の戒めを動かすが、がちゃがちゃと音が鳴るだけだ。取れそうにない。
「取れないぞ」
ジョージが戻ってきた。
「人間の力では絶対に」
ジョージが何か持っている。
「……何持って来た」
「使えそうなものを」
粘度の高いローションの瓶だ。
センスのいい模様の入ったそのアクリル瓶を見た瞬間、阿紫花は改めてぞっとした。本気だ。
「入るかどうか、分からないからな。だがまあ、入れるのは出来る。お前が壊れるかも知れんが、知った事ではない」
軽い音がして、蓋が外れる。
再び右足首を掴まれ、阿紫花は吐き気を覚えた。やめろ、とも言えない。言っても無駄だし、--何をされるのか、見当がついている。
怯えにも取れる表情で固まる阿紫花に、膝を割り身を入り込ませたジョージが顔を上げる。
「……イヤか」
「イヤだ。あ--あたし、それだけはイヤだ」
「……」
「女にだってさせた事、ねえ。い、イヤだ。イヤ」
一度はっきり声に出すと、零れ落ちるように本音が出てくる。
「なんで、こんな事すんだ。イヤだ。あ、あたし--」
イヤ、と繰り返す阿紫花に、
「……もう遅い」
ジョージはローションの瓶を傾けた。
粘度の高い液体が、両足の間を濡らしていく。
「……っ」
「近づき過ぎたんだ」
ジョージの呟きに、「一体何が」、と思った瞬間。
長く太い指がそこへ入り込んできて、阿紫花は不随意に嚥下した。
固唾と、そしておそらくはジョージの唾液の混ざった自分の血を。
続きます。(終わらなかった
やたら長いですがまだ終わりじゃないです。3で終わり。
BGM:the pretender / foo fighters
歌詞がジョージぽい?w
BGM:the pretender / foo fighters
歌詞がジョージぽい?w
The half way 2
おそらく分かったのだろう。
目の前の男は、仏でも夜叉でも人形でもないのだと。
人形遣いなのだと。
窓の外からは煙るような雨音が聞こえる。
「……そうですかい」
阿紫花は床に落ちた煙草を足で踏み消し、空いている左手で右手の戒めを解いていく。伊坂はもう顔も上げない。
阿紫花の顔を見たくないようだ。ニィ、と口元だけで阿紫花が哂う。
「親分さんがそれでいいなら、あたしと羽佐間は下がらせていただきやすよ。よござんすね?そしてこれから先、そちらさんの仕事にゃ関わりやせんぜ。……」
黒の皮手袋をはめる。爪など傷一つ無いかのような動きで。
伊坂はそれすら見ない。
「……ああ……」
ぐったりとした声だった。生気を抜かれた、いや、魂を取られたような有様だ。
完全に場の力点が逆転している。誰が見ても明らかだ。伊坂の手下どもの中には、「今阿紫花が伊坂に何か命じたら自分たちは言うなりになるだろう」という予感を持っている者さえあった。
風の無い冬の湖面のような瞳で、阿紫花は立ち上がった。
ビクリと手下たちが身構える。阿紫花はそれに目もくれず、しゃがみこみ羽佐間の戒めを解いていく。
「羽佐間。でぇじょうぶですか、アンタ」
「あ、兄貴……すいやせんッ!あ、ああ……なんてこった、指が」
「立ちな。ほら、泣きなさんな」
縋りつこうとする羽佐間を押し留め、阿紫花は羽佐間を抱き起こし立たせた。足がふらついているのは、痛みや傷のせいではないようだ。
目の前で傷ついた兄貴分の姿に慄いているのだろう。
羽佐間を支え、阿紫花は事務所のガラス扉へ向かう。手下どもは蜘蛛の子を散らすように脇へ避けた。
「……伊坂の親分さん」
阿紫花は、ドアから出て行く途中で歩を止めた。振り向かずに伊坂へ声を掛ける。
「アンタから盗みの仕事頼まれた時、あたしは--殺しじゃねえ事に、ちょっと感謝してましたぜ」
伊坂が息を呑む。
阿紫花は振り向かず出て行った。
繁華街の一角にあるビルを出る。土砂降りの雨だ。
薄暗い路地へ差し掛かる。薄汚れたゴミバケツや、酔っ払いの吐瀉物が散乱している。背後には輝かしいほど騒がしい通りがある。しかし振り向かない。
不意に、羽佐間を支えていた阿紫花が崩れ落ちた。
目を見開き右手の指に触れぬよう左手で握り締める。
「……ぁぁぁああああああッ……」
「兄貴ッ」
「……ク、ソ……チクショウ……ッ」
それまで耐えていたものが決壊した。痛みが湧き上がって声が止まらない。一度声を出してしまうと、もう耐えられない。
「兄貴ッ!俺のために!」
羽佐間は真っ青な顔で、阿紫花を支え直した。
「……ッ、さ、すがに、堪ンぜ、羽佐間……。ツマンネェ事言いなさんな……。腹ァ立っただけだ。アンタのためなんかじゃねえよ。医者行く程でもねえ……大した事かい。爪剥がすなんて、どんくれえ、ぶりだ?……なんで、アタシが、日本に戻ってるって、伊坂は知ってやがったんでェ」
「こ、高速です。窓開けてモク吸ってる、兄貴をあいつらの下っ端が見てたとか……」
「……はッ……」
図らずともジョージは正しかったというワケだ。いや、「テメーも煙草くれえ吸ってみろってんだ……トーヘンボクが……」
「え?」
「なんでもねえ。なんでもねえよ……」
「あ、兄貴ッ」
羽佐間は必死な顔だ。
「……!」
縋り付こうとする羽佐間を、阿紫花は思い切り振り払った。
縋られたくない。縋りたくない。
手負いの獣のように目を眇めた阿紫花に、羽佐間は一瞬震える。
阿紫花は我に返る。
「……女のトコ行って、あたしの服一式持って来な。どの女でもいい。雇い主に文句言われちまわあ、こんなナリじゃ……」
「行かないで下さい兄貴!」
羽佐間は叫んだ。「もういいじゃねえですか!あんだけ稼いだんだ、日本にだって、女も酒もバクチもありまさ!!行かねえで下さい!兄貴!」
必死な声だ。かわいい弟分のその声に阿紫花は--冷めた。
(そんなモン、飽きちまった)
人形を繰れる場所はここじゃない。
羽佐間の言う安らぎは、阿紫花には共感できない。
(あたしは、どうかしてる)
痛みにブレた脳味噌が、一人で空を見上げる少年を映す。
たった一人で自分を持て余す、ガキの自分。
(いつだって退屈を殺してェだけだ。でも)
あの頃の自分は何を考えていただろう?
「タクシー、捕まえてきな」
痛みが、引いた。いや、消えたわけではない。薄らいだ。
行かなくては。
「ホテルに戻るぜ。コート、アンタのよこしな。あたしのは血が付き過ぎてる。スーツは女のトコからホテルに届けな。朝までにな」
「兄貴」
「服とタクシーだ。とっとしな。羽佐間」
阿紫花は立ち上がる。
土砂降りの雨が、白いコートとスーツについた血を洗い流す。
部屋に戻り時計を見ると、11時半過ぎだった。
まさか部屋でジョージが待っている、という事もなくほっとした。鍵を開けるくらいは平気でやるだろうが、そこまで門限に厳しいと馬鹿に見える。
ホテルに入る時に上に羽織った羽佐間のコートを、阿紫花は脱ぎ捨てた。びしょ濡れだが血は付いていない。
ハンカチで包んだ手袋の先から、血が滴り落ち続けている。白いコートやスーツは、赤い血の染みが多すぎてそれが模様のように見えるほどだ。
広い部屋が腹立たしかった。足早に遠いバスルームへ向かう。装飾的な蛇口をひねり、湯ではなく水を張る。
血まみれの服を、すべて脱いだ。下着も靴下も、エナメル靴も、すべて水の張った浴槽に乱暴に放り込む。血だけでも流さなくては、クリーニングにも出せない。
水しぶきが上がるように激しく、叩きつけるように手袋を放り込むと、自分が息を乱している事が分かった。鼓動も速い。
血はずっと流れ続けている。
今更気が高ぶってくる。爪を剥がされている最中はあれほど静かだった神経が、今では全身で反乱する。
「……!」
シャワーのコックをひねり、水を被った。背筋が凍るほどに冷たく感じたが、爪の剥がされた指先だけは熱かった。燃えるような熱が、ぽたぽたと赤く流れ出す。
うなだれたまま、水を浴び続けた。
下らない。そう思った。
(爪剥がされて、羽佐間捨てて、それでも退屈殺しに行く?あたしはどこまで下らねェ人間だよ)
痛ェ、と、声に出さず呟いた。
弱味は誰にも見せられない。性分だ。ガキの頃から一人ぼっち。羽佐間にさえ泣き言は言わない。羽佐間は自分を兄貴だと立ててくれるし、手下に泣き言など言った日には、人形のように首を挿げ替えられかねない。
「人形のように」。--人形からはどこまでも逃げられない。
自分に残されているのは、人形だけだ。
無性に糸を繰りたくなった。だが両手を持ち上げると、右手の中三本爪が剥がれている。
人形を繰り続けるために負った傷。だが人形はやはり普段のようには繰れないだろう。そう思い至り、涙を出したくなった。だが出ない。
だから代わりに、哂った。
「涙も出ねェでやんの……」
一人になっても泣けないもンだな。分かり切っている、と目を閉じた。膝から力が抜ける。ずるずると膝を突いた。
何もかも、どうでもよくなった。
血は流れ続けている。
--ふと、違和感を感じた。
阿紫花は顔を上げる。どれだけ冷たい水を浴びていたのだろう?浴槽からは水が溢れ出して、タイルについた膝や足の甲を浸している。何分、何十分そうしていたのだろう。
下着や靴下といった薄手の衣服が、増した水と共に浴槽から流れ落ちそうになっている。阿紫花は浮かんでいた皮手袋を掴み、手にはめる。指は痛んだが、性分だ。手袋がないと落ちつかない。
浴槽に沈んだコートから、リヴォルヴァーを取り出す。
撃鉄を起こし、そっと、立ち上がった。
水を溢れさせたまま、バスルームの扉を開けた。洗面室には誰もいない。バスローブを羽織り、寝室へ続くドアをそっと開けた。
ベッドの上に、誰かが腰を下ろしている。
「……ジョージさン」
「12時23分」
ジョージは言った。「お前に銃を突きつけられるのは二回目だ」
「……」
阿紫花は銃を下ろした。「ちゃんと戻ってきやしたよ」
何をしに来た--とは思うが、言えない。何かためらわれる。
銃を、脇の棚の上に置いた。
出て行ってほしい。
「あたしゃもう寝ますよ。ちっと遊びが過ぎて疲れて--」
「血の臭いがする」
そう言って、ジョージは立ち上がった。
近づき、右手を掴んだ。
「これがお前の『遊び』か?」
サングラスのせいで目の色が見えない。だが軽蔑の響きを、阿紫花は感じ取る。
ぽたりと水を含んだ血がジョージの手を汚した。
「こんな指では人形は扱えない。本気で、明日ついてくるつもりだったのか?こんな役に立たぬ指で」
カチリ。阿紫花の左手が、いつのまにか再び銃を持っている。撃鉄を起こしジョージの心臓を狙う。
「爪剥がしてたって人形は繰れまさァ……。舐めねえでくんな」
「……」
無言で。
ジョージは阿紫花の傷ついた右手を握り締めた。
「……!」
「足手まといは要らんという事だよ、アシハナ」
「ア……ガ……ッ」
痛みで目がくらむ。阿紫花は銃を取り落とす。どうせ役に立たない。
だが。
「コノ……ッ、バカ野郎ッ……!!」
左手で、ジョージの頬を殴った。「クソ人形ッ……」
怒りがこみ上げ、目の前が暗い。
いつもなら眩しいほどの銀髪も、見えないほど視界が暗かった。
「お前は厄介事ばかりだ。アシハナ」
殴られたジョージは痛がりもしない。「爪を剥がされても動じなかったお前が、これしきで喚くな」
「……なんで知ってやがる。……アンテナ(発信機)付けやがったな!」
「GPS端末に盗聴器もな。車の中で寝るからだ」
「……あン時か」
ぬるい空気の中で目覚めた時、ジョージの手がイヤに近かったのを思い出す。「……雇い主なら、もちっと信用したらどうなんだい」
「人形は手に入った。我々が欲しいのは、人形だ。……繰り手ならしろがねがするだろう」
「……なにを……」
「お前は必要ないという事だよ、アシハナ。人間の人形遣いなど、この戦いでは不要だ」
「……」
「お前は置いていく」
ガチッ、と音がした。
怒りのあまり、阿紫花は自分の舌先を歯で噛み破っていた。
「~ふざけんなッ!!」
おそらく分かったのだろう。
目の前の男は、仏でも夜叉でも人形でもないのだと。
人形遣いなのだと。
窓の外からは煙るような雨音が聞こえる。
「……そうですかい」
阿紫花は床に落ちた煙草を足で踏み消し、空いている左手で右手の戒めを解いていく。伊坂はもう顔も上げない。
阿紫花の顔を見たくないようだ。ニィ、と口元だけで阿紫花が哂う。
「親分さんがそれでいいなら、あたしと羽佐間は下がらせていただきやすよ。よござんすね?そしてこれから先、そちらさんの仕事にゃ関わりやせんぜ。……」
黒の皮手袋をはめる。爪など傷一つ無いかのような動きで。
伊坂はそれすら見ない。
「……ああ……」
ぐったりとした声だった。生気を抜かれた、いや、魂を取られたような有様だ。
完全に場の力点が逆転している。誰が見ても明らかだ。伊坂の手下どもの中には、「今阿紫花が伊坂に何か命じたら自分たちは言うなりになるだろう」という予感を持っている者さえあった。
風の無い冬の湖面のような瞳で、阿紫花は立ち上がった。
ビクリと手下たちが身構える。阿紫花はそれに目もくれず、しゃがみこみ羽佐間の戒めを解いていく。
「羽佐間。でぇじょうぶですか、アンタ」
「あ、兄貴……すいやせんッ!あ、ああ……なんてこった、指が」
「立ちな。ほら、泣きなさんな」
縋りつこうとする羽佐間を押し留め、阿紫花は羽佐間を抱き起こし立たせた。足がふらついているのは、痛みや傷のせいではないようだ。
目の前で傷ついた兄貴分の姿に慄いているのだろう。
羽佐間を支え、阿紫花は事務所のガラス扉へ向かう。手下どもは蜘蛛の子を散らすように脇へ避けた。
「……伊坂の親分さん」
阿紫花は、ドアから出て行く途中で歩を止めた。振り向かずに伊坂へ声を掛ける。
「アンタから盗みの仕事頼まれた時、あたしは--殺しじゃねえ事に、ちょっと感謝してましたぜ」
伊坂が息を呑む。
阿紫花は振り向かず出て行った。
繁華街の一角にあるビルを出る。土砂降りの雨だ。
薄暗い路地へ差し掛かる。薄汚れたゴミバケツや、酔っ払いの吐瀉物が散乱している。背後には輝かしいほど騒がしい通りがある。しかし振り向かない。
不意に、羽佐間を支えていた阿紫花が崩れ落ちた。
目を見開き右手の指に触れぬよう左手で握り締める。
「……ぁぁぁああああああッ……」
「兄貴ッ」
「……ク、ソ……チクショウ……ッ」
それまで耐えていたものが決壊した。痛みが湧き上がって声が止まらない。一度声を出してしまうと、もう耐えられない。
「兄貴ッ!俺のために!」
羽佐間は真っ青な顔で、阿紫花を支え直した。
「……ッ、さ、すがに、堪ンぜ、羽佐間……。ツマンネェ事言いなさんな……。腹ァ立っただけだ。アンタのためなんかじゃねえよ。医者行く程でもねえ……大した事かい。爪剥がすなんて、どんくれえ、ぶりだ?……なんで、アタシが、日本に戻ってるって、伊坂は知ってやがったんでェ」
「こ、高速です。窓開けてモク吸ってる、兄貴をあいつらの下っ端が見てたとか……」
「……はッ……」
図らずともジョージは正しかったというワケだ。いや、「テメーも煙草くれえ吸ってみろってんだ……トーヘンボクが……」
「え?」
「なんでもねえ。なんでもねえよ……」
「あ、兄貴ッ」
羽佐間は必死な顔だ。
「……!」
縋り付こうとする羽佐間を、阿紫花は思い切り振り払った。
縋られたくない。縋りたくない。
手負いの獣のように目を眇めた阿紫花に、羽佐間は一瞬震える。
阿紫花は我に返る。
「……女のトコ行って、あたしの服一式持って来な。どの女でもいい。雇い主に文句言われちまわあ、こんなナリじゃ……」
「行かないで下さい兄貴!」
羽佐間は叫んだ。「もういいじゃねえですか!あんだけ稼いだんだ、日本にだって、女も酒もバクチもありまさ!!行かねえで下さい!兄貴!」
必死な声だ。かわいい弟分のその声に阿紫花は--冷めた。
(そんなモン、飽きちまった)
人形を繰れる場所はここじゃない。
羽佐間の言う安らぎは、阿紫花には共感できない。
(あたしは、どうかしてる)
痛みにブレた脳味噌が、一人で空を見上げる少年を映す。
たった一人で自分を持て余す、ガキの自分。
(いつだって退屈を殺してェだけだ。でも)
あの頃の自分は何を考えていただろう?
「タクシー、捕まえてきな」
痛みが、引いた。いや、消えたわけではない。薄らいだ。
行かなくては。
「ホテルに戻るぜ。コート、アンタのよこしな。あたしのは血が付き過ぎてる。スーツは女のトコからホテルに届けな。朝までにな」
「兄貴」
「服とタクシーだ。とっとしな。羽佐間」
阿紫花は立ち上がる。
土砂降りの雨が、白いコートとスーツについた血を洗い流す。
部屋に戻り時計を見ると、11時半過ぎだった。
まさか部屋でジョージが待っている、という事もなくほっとした。鍵を開けるくらいは平気でやるだろうが、そこまで門限に厳しいと馬鹿に見える。
ホテルに入る時に上に羽織った羽佐間のコートを、阿紫花は脱ぎ捨てた。びしょ濡れだが血は付いていない。
ハンカチで包んだ手袋の先から、血が滴り落ち続けている。白いコートやスーツは、赤い血の染みが多すぎてそれが模様のように見えるほどだ。
広い部屋が腹立たしかった。足早に遠いバスルームへ向かう。装飾的な蛇口をひねり、湯ではなく水を張る。
血まみれの服を、すべて脱いだ。下着も靴下も、エナメル靴も、すべて水の張った浴槽に乱暴に放り込む。血だけでも流さなくては、クリーニングにも出せない。
水しぶきが上がるように激しく、叩きつけるように手袋を放り込むと、自分が息を乱している事が分かった。鼓動も速い。
血はずっと流れ続けている。
今更気が高ぶってくる。爪を剥がされている最中はあれほど静かだった神経が、今では全身で反乱する。
「……!」
シャワーのコックをひねり、水を被った。背筋が凍るほどに冷たく感じたが、爪の剥がされた指先だけは熱かった。燃えるような熱が、ぽたぽたと赤く流れ出す。
うなだれたまま、水を浴び続けた。
下らない。そう思った。
(爪剥がされて、羽佐間捨てて、それでも退屈殺しに行く?あたしはどこまで下らねェ人間だよ)
痛ェ、と、声に出さず呟いた。
弱味は誰にも見せられない。性分だ。ガキの頃から一人ぼっち。羽佐間にさえ泣き言は言わない。羽佐間は自分を兄貴だと立ててくれるし、手下に泣き言など言った日には、人形のように首を挿げ替えられかねない。
「人形のように」。--人形からはどこまでも逃げられない。
自分に残されているのは、人形だけだ。
無性に糸を繰りたくなった。だが両手を持ち上げると、右手の中三本爪が剥がれている。
人形を繰り続けるために負った傷。だが人形はやはり普段のようには繰れないだろう。そう思い至り、涙を出したくなった。だが出ない。
だから代わりに、哂った。
「涙も出ねェでやんの……」
一人になっても泣けないもンだな。分かり切っている、と目を閉じた。膝から力が抜ける。ずるずると膝を突いた。
何もかも、どうでもよくなった。
血は流れ続けている。
--ふと、違和感を感じた。
阿紫花は顔を上げる。どれだけ冷たい水を浴びていたのだろう?浴槽からは水が溢れ出して、タイルについた膝や足の甲を浸している。何分、何十分そうしていたのだろう。
下着や靴下といった薄手の衣服が、増した水と共に浴槽から流れ落ちそうになっている。阿紫花は浮かんでいた皮手袋を掴み、手にはめる。指は痛んだが、性分だ。手袋がないと落ちつかない。
浴槽に沈んだコートから、リヴォルヴァーを取り出す。
撃鉄を起こし、そっと、立ち上がった。
水を溢れさせたまま、バスルームの扉を開けた。洗面室には誰もいない。バスローブを羽織り、寝室へ続くドアをそっと開けた。
ベッドの上に、誰かが腰を下ろしている。
「……ジョージさン」
「12時23分」
ジョージは言った。「お前に銃を突きつけられるのは二回目だ」
「……」
阿紫花は銃を下ろした。「ちゃんと戻ってきやしたよ」
何をしに来た--とは思うが、言えない。何かためらわれる。
銃を、脇の棚の上に置いた。
出て行ってほしい。
「あたしゃもう寝ますよ。ちっと遊びが過ぎて疲れて--」
「血の臭いがする」
そう言って、ジョージは立ち上がった。
近づき、右手を掴んだ。
「これがお前の『遊び』か?」
サングラスのせいで目の色が見えない。だが軽蔑の響きを、阿紫花は感じ取る。
ぽたりと水を含んだ血がジョージの手を汚した。
「こんな指では人形は扱えない。本気で、明日ついてくるつもりだったのか?こんな役に立たぬ指で」
カチリ。阿紫花の左手が、いつのまにか再び銃を持っている。撃鉄を起こしジョージの心臓を狙う。
「爪剥がしてたって人形は繰れまさァ……。舐めねえでくんな」
「……」
無言で。
ジョージは阿紫花の傷ついた右手を握り締めた。
「……!」
「足手まといは要らんという事だよ、アシハナ」
「ア……ガ……ッ」
痛みで目がくらむ。阿紫花は銃を取り落とす。どうせ役に立たない。
だが。
「コノ……ッ、バカ野郎ッ……!!」
左手で、ジョージの頬を殴った。「クソ人形ッ……」
怒りがこみ上げ、目の前が暗い。
いつもなら眩しいほどの銀髪も、見えないほど視界が暗かった。
「お前は厄介事ばかりだ。アシハナ」
殴られたジョージは痛がりもしない。「爪を剥がされても動じなかったお前が、これしきで喚くな」
「……なんで知ってやがる。……アンテナ(発信機)付けやがったな!」
「GPS端末に盗聴器もな。車の中で寝るからだ」
「……あン時か」
ぬるい空気の中で目覚めた時、ジョージの手がイヤに近かったのを思い出す。「……雇い主なら、もちっと信用したらどうなんだい」
「人形は手に入った。我々が欲しいのは、人形だ。……繰り手ならしろがねがするだろう」
「……なにを……」
「お前は必要ないという事だよ、アシハナ。人間の人形遣いなど、この戦いでは不要だ」
「……」
「お前は置いていく」
ガチッ、と音がした。
怒りのあまり、阿紫花は自分の舌先を歯で噛み破っていた。
「~ふざけんなッ!!」
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プロフィール
名前:デラ
性別:女性(未婚)
年齢:四捨五入して三十路
備考:体力と免疫力が無い
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